四官十六階七十三刻  座頭


 座頭には一度から四度までの4階級があるが、さらにその中も細分化されている。

[4]1−1−1.衆分(才敷・彩色衆分) 4両
[5]1−1−2.一度の上衆引(萩の上衆引) 4両
[6]1−1−3.一度の中老引 4両
[7]1−1−4.一度の晴20両
[8]1−2−1.二度の上衆引 6両
[9]1−2−2.二度の中老引 6両
[10]1−2−3.二度の晴30両
[11]1−3−1.三度の上衆引 4両
[12]1−3−2.三度の中老引 4両
[13]1−3−3.三度の晴20両
[14]1−4−1.四度の上衆引22両
[15]1−4−2.四度の送物引 6両
[16]1−4−3.四度の大座引 3両
[17]1−4−4.四度の中老引 6両
[18]1−4−5.四度の晴25両

   以上、座頭は15刻、打掛の3刻と合わせてここまでで18刻。


 [3]過銭打掛の者が、[4]衆分に昇進することを座入りという。座頭の官位を得て、「○一座頭」「城○座頭」と呼ばれるようになる。ただし、過銭打掛が衆分になるためには4両の官金が必要であり、それ以前にかかった金額と合わせ、ここまでで合計12両を要する。

 また、無官の者が[1]〜[3]の地位を経ずに、いきなり衆分になることを粒入りと言った。12両を一括払いすることができる経済的に恵まれた者には、それが可能であった。

 座頭の階級の名称をみると、「上衆引」「中老引」「晴」というのが繰り返し現れている。これは、上納された官金の配分先を示している。 上衆というのは検校、中老とは勾当のことである。 上衆引の地位を得るために納めた官金は検校たちに分配された。同じように中老引の官金は勾当たちに、晴の官金は座頭に分配された。


 座頭には一度から四度までの4階があったが、最上位の四度の座頭を在名とも称した。在名になると名字を名乗ることができた。だから、座頭の中では、[13]三度の晴と[14]四度の上衆引の間に大きな区切りがあることになる。

 在名の最初の位である[14]四度の上衆引になるのに必要な官金の合計は132両、最上位の[18]四度の晴になるには172両である。 ただし、多くの盲人にとっては、もはやこの地位はほとんど縁のない話であった。

 『日本盲人社会史研究』に花一座頭という人の官位の昇進のさまが紹介されている。

  元禄13年(1700)11月朔日  [4]粒入り(衆分)
  同 17年(1704) 正月朔日  [5]萩の上衆引
  享保 2年(1717) 正月朔日  [6]一度の中老引
  同 11年(1726)3月19日  [7]一度の晴
  同 18年(1733)9月22日  [8]二度の上衆引

 花一は、以後ずっと、二度の上衆引の地位にあって、寛保元年(1741)に歿した。*

  * 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社,1974.p182

 『当道新式目』には「地神経読む盲目等寄伏して官位すすまば二度中老たるべし」* という規定がある。

  * 『当道新式目』,『日本庶民生活史料集成』第17巻,三一書房,1972.p244

 中世から近世を通じて、九州を中心に盲僧とよばれる盲人集団があった。 琵琶を手に平家を語る芸能者集団であった当道の盲人たちとは異なり、「地神経」を読誦して祈祷を行う独特の宗教者であった。

 当道と盲僧の間にはしばしば対立や抗争がみられたが、勢力としては当道の方が圧倒的にまさっていたため、やがて盲僧の中にも当道に帰順する者が現われるようになった。 この規定は、盲僧の者たちの官位の昇進は[9]二度の中老引を上限とし、それ以上は許されないとしている。

 盲僧出身者を差別している規定ということになるが、現実には、本来の当道者にとっても、多くの場合、このあたりが昇進の限界だったと思われる。

   明暦3年(1657)に当道から久我家へ提出された文書* によれば、当道の構成人数は、検校98人、勾当129人、四度の座頭24人、衆分(一度から三度までの座頭)1800人である。 検校・勾当という高位の者は全体の1割程度に過ぎず、9割近くが座頭なのである。そして、1800人の座頭の大半が一度か二度であったことは言うまでもない。

  * 中山太郎;『続日本盲人史』1936.p104

 ここに記録された検校から衆分までの人数を合計すると、2051人になるが、これには[0]〜[3]の初心や打掛の者は含まれていない。 この下に、少なくとも数千人の初心・打掛が存在していたはずである。


    在名(ざいみょう)

 四度になると名字を名乗ることができる。この名字を在名といい、また在名を名乗ることのできる四度の地位のことを在名ともいった。

 「和一」という座頭がいたとしよう。

 この名を名乗るのは、[1]半内掛からである。[0]初心のときは別の名前で呼ばれていたはずだ。 この人は、[1]〜[3]の段階では、単に「和一」と呼ばれ、[4]衆分になると以後、[13]の三度の座頭までは「和一座頭」と呼ばれる。

 四度になると在名を名乗ることができる。そこで名乗った在名が「杉山」であったとしよう。 そうすると、今度は「和一座頭」ではなく、「杉山座頭」と呼ばれるようになる。 その後、勾当、検校と昇進すれば、順次「杉山勾当」、「杉山検校」と呼ばれることになるのである。

 『当道要集』は、在名の起源について、次のように記す。

 一、筑紫方城一と申す検校 後宇多院の御時出来せり。此の城一を検校の開山とす。 在名をいふ事 是よりはじまり、その比(ころ)城玄 如一とて検校二人有り、二人共に筑紫かた城一の真弟なり。 城玄 八坂かた最初の検校なり。如一は一方最初の検校なり。 城玄の在名は八坂と号す。八坂の塔の辺に住めばなり。如一は在名坂東と号す。 此の時 八坂かた一方と両流に相別る。 正に一流を汲て両翼をならふといへども文章の義理音曲の体は別条なし。 また覚一は尊氏将軍の従母弟なりき。播磨の明石を知行せり。 城玄検校は伏見院の御時 久我大納言の舎弟なり。此の故に久我殿を伝奏とす。華園院より城玄に紫衣御免有りき。*

  * 『当道要集』,『日本庶民生活史料集成』第17巻,p238  表記を修正

 城一は九州の、如一は東国の出身であったらしい。城玄は京都の八坂に住み、覚一は明石に知行地を有していた。 このように、在名は出身地や活動の拠点の地名を付けるのが本来のものであった。

 明石覚一の孫弟子にあたる塩小路慶一は、その名前からして京都の塩小路通りに住んでいたのだろうと想像されるが、 その後の検校の在名を眺めてみても、地名と見られるものは多くはない。 比較的早い段階で、在名は本来の意味合いを失ってしまったと考えられる。

 杉山和一は、伊勢の藤堂家の家臣であった杉山氏の出身であると伝えられている。 出身地ではなく、自分の本姓をそのまま在名としたのである。

 杉山和一には多くの弟子がいたが、その中のある者は、「杉岡」「杉枝」「松山」などと称している。 師の杉山から1字をもらい受けた形である。

 塙保己一の場合は、本姓は荻野といった。 塙というのは、師匠である雨富須賀一の本姓をいただいたものである。 雨富須賀一が自分の本姓である塙を在名として名乗らなかったのは、師の雨谷寸一から雨の字をもらい受けたためである。

 保己一はなぜ本姓の荻野を在名としなかったか。それは、この時代、荻野という検校がすでに存在していたからである。 荻野知一は名古屋で活躍した平曲の大家で、保己一よりも先に検校になっていた。 二人の検校が同時に同じ在名を名乗ることはできないため、保己一は荻野を在名とするわけにはいかなかった。


《2010年12月》

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