塙保己一(ほきいち)


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 延享3年(1746)5月5日、武蔵国の生まれ。
 妙観派。坊主・雨富須賀一。のち、中浦検校の同宿弟子。 天明3年(1783)3月24日権成。寛政3年(1791)~寛政11年(1799)、座中取締役。 享和3年(1803)6月~文化2年(1805)6月、62代江戸惣録。文政4年(1821)2月6日、島波惣検校死去により81代職惣検校。 同年8月23日隠居。
同年9月12日歿。法名・和学院殿心眼智光大居士。墓所・真言宗愛染院(東京都新宿区若葉2-8)。

 国学者。萩原宗固、賀茂真淵らに師事。和学講談所を設立。『群書類従』編纂。門人に雨富流謙一ほか屋代弘賢、石原正明、松岡辰方、中山信名ら。


『本朝盲人伝』の塙保己一

 『本朝盲人伝』の著者・石川二三造は、「人康親王は皇族にして後世盲人の崇敬する所なれば特に之を巻頭に置き、 塙検校は盲人中の翹楚(ぎょうそ)なるを以て其次に之を置けリ」として、取り上げた283人の盲人の中で塙保己一を第2番目に置いている。

    塙保己一
 塙保己一は武州児玉郡保木野村の人なり。本姓荻野氏。系 参議小野篁より出づ。父を宇兵衛と曰ふ。斎藤氏の女を娶り、延享三年五月五日を以て保己一を生む。 幼名は寅之助。後 其の師雨富検校須賀一の本姓塙氏を冒し、名を保己一と改む。
幼にして明を失ふ。年十二母を喪ひ、哀慟 措く能はず。保己一英異超倫、屹然志を立て、江戸に出でゝ業を成さんと欲す。 偶々江戸に某の太平記を諳んじて名を諸侯の間に著すと聞き、蹶然起ちて曰く、太平記は四十巻に過ぎず。之を諳んじて名を著すは易々たるのみと。
年十五 父に辞して江戸に至り、雨冨検校の門に入り、其の家に寓し、名を千弥と改む。 雨冨之に教ふるに三絃を以てすれば一夕にして忘れ、三歳一曲をも得ず。乃ち鍼術を授け、医書を教ふるに、一たび聞いて能く記憶す。然れども其の術進まず。 雨冨之を誚(せ)めて曰く、汝今より三歳にして、其の術成らずば、吾将に汝を逐はんと。
保己一肝に銘じて服膺し、孜々怠らず。 既にして皇典を萩原宗固に受け、又漢籍及び神道を川島貴林に、律令を山岡明阿に、医書を僧孝首に受け、黽勉講習し、稍博洽を以て名を知らる。
一日 某 商廛を過ぐ。人あり、片紙に水偏義旁を書して曰く、是即ち巷名なれども、何れの巷なるを知らざるなりと。人未だ解する能はず。 乃ち保己一に問ふ。保己一曰く、是必ず油巷ならんと。之を其の人に問へば、果して然り。衆驚いて曰く、何を以て之を知るかと。 保己一曰く、当初書を作るもの油の字を知らず。旁人之に教へて曰く、水を偏となし、由を旁となすと。由義 邦音相通ず。故に誤れるなりと。人 其の敏慧に服す。
年十八 衆分となりて名を保木野一と改む。年二十四 萩原宗固の言に因りて、更に賀茂真淵に就きて六国史を誦す。未だ幾ばくならずして真淵歿す。 其の後 学術日に進む。雨冨一日之を招ぎ、諭して曰く、吾盲人の進序を視るに、たいてい皆金に資りて学術に由らず。今 汝学術絶倫。然れども財なければ、亦 位に進む能はざるなり。 吾嘗て汝の為に百金を貯へたり。汝宜しく之に資るべしと。乃ち之を与ふ。
安永四年春 遷りて勾当となり、更に旧名を改む。是の年雨冨氏を辞して居を麹町番町に卜す。弟子益々進む。 保己一常に以為へらく、禹域には叢書多し。漢魏叢書の如きは、珍本良書兼載し、学者今に至るまで之を便とす。 本邦には未だ此の如きものあるを聞かざるなり。今若し彼に倣うて一大叢書を刻せば、学者を裨益すること尠からざるなりと。
乃ち菅公の祠に誓ひ、毎晨 心経百巻を誦し、稽顙福を祈る。 是より力を著書に竭し、天下散逸の書を罔羅し、予め其の書に名づけて群書類従と曰ふ。蓋し魏の応劭伝中、五経群書類を以て相従ふの語を取るなり。
天明三年三月 進んで検校に遷る。寛政中 官命を奉じ、和学講談所を麹町裏六番町に設け、弟子に教授す。尋で盲人監督となる。 享和中 惣録となりて、居を本所惣録邸に移す。文化中講談所を麹町表六番町に移し、菅公の祠を邸中に建て、毎日報賽す。 後 惣録を辞して十老の列に加る。復 表六番町に住む。故例に、盲人の十老となるものは必ず京都に移る。保己一独り留りて江戸に住む。蓋し官命に従ふなり。 後 数歳にして群書類従五百三十巻六百六十五冊刻成る。其の宿志 此に至りて始めて達す。
是より先、更に続集を輯めんと欲し、奇書逸編集めて一千余部に至る。 又嘗て官命を奉じて、宇多天皇の仁和三年より以来、正親町天皇の慶長八年に至るの実録を修め、名つけて史料と曰ふ。其の力を著書に竭すこと此の如し。
保己一人となり博覧強記、群籍に通じ、尤も国学に邃し。嘗て自ら水母子と号す。水母は鰕を以て目となすの俚諺に取る。 常に書記を置いて筆硯に従事し、又好んで古書を収畜す。其の居を名つけて温古堂と曰ふ。
一日源氏物語を講ぜしに、傍人謬読す。保己一続誦して一字を錯らず。又嘗て夏夕源氏物語を講ず。涼風燭を滅して一室冥暗、咫尺を弁ぜず。 保己一講誦輟まず。傍人巻を釈てて彷徨し、点火を待たんことを請ふ。保己一笑ひて曰く、嗟乎有眼者何ぞ不自由の甚だしきやと。傍人皆之を慙づ。
又和歌を善くし、嘗て浮島原を過ぎて作あり。曰く、
      言の葉の及ばぬ身には目に見ぬも、なかなかよしや雪の富士の根。
と。一時人口に膾炙す。
文政四年九月十二日病んで歿す。年七十六。四谷安楽寺に葬る。
著す所、群書類従正続の外に、椒庭譜略、皇親譜略、花咲松松山集、螢蝿抄、史料等、若干巻あり。 又日本後紀、令義解、百錬抄、類聚符宣抄、徒然草、参考盛衰記、孝義録、雞林拾葉の諸書を校正し、皆世に行はる。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.2

『世界盲人百科事典』の塙保己一

 江戸時代のすぐれた文献学者として,国学史上に不滅の業績を残した塙保己一は,わが国古来の記録・雑書が失われていくのを歎き, これらを叢書にまとめて国学の基礎資料に当てるため,1779(安永8)年「群書類従」の編纂を志した. 優れた記憶力を生かして文献を取扱うのに長じていた保己一は,門下の屋代弘賢,松岡辰方,石原正明,中山信名らとともにこの大事業を推し進め, 40年後の1819(文政2)年までに530巻(665冊)の木版本を完成した. 内容は神祇・帝王・補任・官職など25部門に分かれ,企画の雄大さと,底本の選択や校正にすぐれた見識をしのばせている.
 その続編である「続群書類従」は1000巻で,内容は正編と同じく25部門に分かれ,1822(文政5)年にひとまず編集を完了したが, 前年に保己一が亡くなったので,ごく一部分を出版しただけで中絶した. 続群書類従完成会の活版本が刊行を終わったのは1928(昭和3)年で,正編とともに歴史や文学の研究に寄与している.
 また保己一は,「日本後紀」(10冊),「令義解(りょうのぎげ)」(10冊),「百錬抄」(14巻28冊),「扶桑略記」(15冊), 「類聚符宣抄」(8冊)など国史・律令の古典を校訂・出版して,国学を学ぶものがたやすく手に入れることができるようにした. とりわけ「日本後紀」はわが国の正史である「六国史」に含まれる貴重な書物でありながら,長い間その存在がわからなくなっていたのを, 保己一の門人稲山行教が京都の旧家で発見したもので,全40巻のうち10巻の残欠本であるが(あとの30巻は現在まで発見されていない), これを校訂して世に広めたことは学界に対する大きな貢献であった.
 そのほか,武家故実の史料を集めた「武家名目抄」(381冊,没後に完成)をはじめ, 外交に関する史料を集めた「螢蝿抄(けいようしょう)」(6冊),朝鮮との関係史料を集めた「鶏林拾葉」(8冊), 皇紀に関する史料を集めた「椒庭譜略(しょうていふりゃく)」(7冊),皇子など皇族に関する史料を集めた「皇親譜略」(7冊)などの編集を行い, 著述には長慶天皇の即位について論じた「花咲松」(1冊)がある. これらの諸書は保己一の生存中には出版されなかったが,いずれものちに印刷されて,その業績を伝えている.
 1808(文化5)年に着手した「史料」の編集は,「群書類従」と並び称される大規模な企画であった. これは「六国史」の最後の「三代実録」が平安時代の光孝天皇の代に終わり,次の宇多天皇以降の正史が欠けているのを補うため, 宇多天皇即位の887(仁和3)年から徳川家康が江戸に幕府を開いた1603(慶長8)年まで,717年間の根本史料を年月順に日を追って配列し, わが国の過去の姿をありのままに世に伝えるためであった. 現在もなお,東京大学史料編纂所で続行されている「大日本史料」は,保己一の企画した編集方法を受け継いでいるので, 保己一その人の事業としては,わずかに一部分の稿本作成に終わったとはいえ,その企画は国家的事業として継承されている.

  ―― 『世界盲人百科事典』,p.93
 〔塙保己一〕(1746/延享3~1821/文政4).武蔵国の農家に生まれ,3歳のときに疳を病み,5歳の春に,失明(一説には7歳)した. 幼少から奇特な志を持ち,常に人のために尽すことを心がけ,自ら持すること厳に無欲清廉,また,当時他人の情け保護に頼る風が社会にひろがっていたにもかかわらず, 独立独行,自尊の志が強かったことは,後年,夜間の講義中における消灯の逸話に示されている晴眼者に負けまいという根性によくうかがわれる. その負けじ魂は「駑鈍なれども,千日の間毎日百巻を読まば…」と不屈の闘志をむき出しにしていることでも思い半ばに過ぎる. それゆえにこそ,勾当,検校,盲人取締役と盲人としては最高の位に着々進むとともに,それまでいまだ多く世に刊行されなかったわが国古今の書, 1276種を神祇・帝王など25部門に分けて校刻したいわゆる大双書の創始ともいうべき有名な「群書類従」正編(665)冊に上るおそるべき大集成を成しとげ, 1793(寛政5)年,また「和学講談所」を設け,子弟の教授に当たるなど,盲人とは思われぬ大活躍をなし,その名声は天下にひびいたのであった.
 当時の落首にも,「目はないがはなは名高き学者なり」,「保己一の群書目あきの手引草」,「番町で目あきめくらに物を聞き」と絶賛していることでも, いかに世人の敬仰のまとであったかがうかがえる.

  ―― 『世界盲人百科事典』,p.95
 〔塙保己一〕 江戸中期の国学者.温故堂と称した.「正続群書類従」を編集刊行したが,歌人としても名高く,家集「松山集」を残した. その巻頭の歌に「年なみもまたこえなくに春来ぬとかすみ初めたる末の松山」.

  ―― 『世界盲人百科事典』,p.100


塙保己一 外部リンク

  塙保己一とは(コトバンク)

  塙保己一(Wikipedia)

  塙保己一史料館 社団法人温故学会

  総検校塙保己一先生遺徳顕彰会

  ほか多数


《2012年6月》

塙保己一 2

塙保己一 3

塙保己一 4

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