常陸国の生まれ。
妙観派。坊主・雨谷寸一。宝暦6年(1756)12月13日権成。天明4年(1784)歿。国学者で惣検校の塙保己一の坊主として著名である。
塙保己一の師
雨富須賀一 雨富須賀一、本姓は塙氏。常陸国茨城郡市原村の人。宝暦中 江戸四谷に住む。検校たり。平生 慈恵を好む。 塙保己一 年僅かに十三、其の門に入る。須賀一 其の奇才を愛し、誘導懇切 至らざる所なし。 保己一 長ずるに及んで学を嗜む。然れども 多病にして意の如くならず。須賀一 之を慰めて曰く、人の業を成すは身体の健康に在り。 汝 宜しく山河を跋渉して以て其の病を養ふべし。然る後に学を修むるも未だ晩からざるなりと。 乃ち路費を与ふ。保己一 懽喜、装を促して出で、伊勢の大廟を拝し、六旬にして帰る。其の病 果して癒ゆ。是より苦学して殆ど寝食を忘る。然れども貧 殊に甚だし。 須賀一 又諭して曰く、汝 有為の志を抱くと雖も、盲官卑きに居れば、財を獲る能はず。 財を獲る能はずば終身轗軻、志を遂ぐること能はざらんと。更に百金を与へて盲官に拝せしむ。 是より先、保己一 荻野氏を称せしが、是に於て須賀一の本姓を冒して塙氏と曰ふ。 天明四年 須賀一 病に罹り、将に歿せんとするや、保己一を召して曰く、吾 曩(さき)に金を人に貸し、其の券 尚在り。今将に汝に与へんとすと。 保己一 辞して受けず。深く其の恩を謝して曰く、児 少小より師の洪恩を受けて業を就すを得たり。願 已に足れり。児 又何をか望まんと。 須賀一 既に歿して 保己一 追悼して已まざりしと云ふ。 ―― 『本朝盲人伝』,p.85 |
〔雨富須賀一〕 (1784/天明4)塙保己一の師.多くの後輩を育成,自ら身を持すること謙虚, 保己一をわが家に引取り,十数年間親身になって世話をしたといわれ, その学才がすぐれていることを認めて国学に専念させた蔭の人として,後年の保己一を見出し育成した功労者である. 常陸の生まれで検校. ―― 『世界盲人百科事典』,p.97 |
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