四官十六階七十三刻  勾当


 勾当には「一度」から「八度」まで8階級ある。「十六階」のうちのちょうど半分を占める。細かくは35刻に分かれているから、「七十三刻」の半数近くに値する。

[19]2−1−1.(一度)過銭勾当 3両
[20]2−1−2.(一度)同 上衆引17両
[21]2−1−3.(一度)同 晴10両
[22]2−2−1.(二度)送物の百引10両
[23]2−2−2.(二度)同 上衆引 6両
[24]2−2−3.(二度)同 晴 4両
[25]2−3−1.(三度)掛司の三老引   1分
[26]2−3−2.(三度)同 五度引   1分
[27]2−3−3.(三度)同 十老引   2分
[28]2−3−4.(三度)同 上衆引 6両
[29]2−3−5.(三度)同 晴 5両
[30]2−4−1.(四度)立寄の五十引 5両
[31]2−4−2.(四度)同 上衆引 5両
[32]2−4−3.(四度)同 晴 5両
[33]2−5−1.(五度)召物の三老引   1分
[34]2−5−2.(五度)同 五老引   1分
[35]2−5−3.(五度)同 十老引   2分
[36]2−5−4.(五度)同 上衆引 4両
[37]2−5−5.(五度)同 中老引 5両
[38]2−5−6.(五度)同 晴25両
[39]2−6−1.(六度)初大座の三老引   2分
[40]2−6−2.(六度)同 五老引   2分
[41]2−6−3.(六度)同 十老引 1両
[42]2−6−4.(六度)同 上衆引 8両
[43]2−6−5.(六度)同 中老引10両
[44]2−6−6.(六度)同 晴40両
[45]2−7−1.(七度)後大座の三老引   2分
[46]2−7−2.(七度)同 五老引   2分
[47]2−7−3.(七度)同 十老引 1両
[48]2−7−4.(七度)同 上衆引 8両
[49]2−7−5.(七度)同 中老引10両
[50]2−7−6.(七度)同 晴40両
[51]2−8−1.(八度)権勾当上衆引10両
[52]2−8−2.(八度)同 中老引10両
[53]2−8−3.(八度)同 晴30両

 前のページでは、花一座頭の昇進の例を取り上げたが、ここでは同じ『日本盲人社会史研究』から会沢検校の例を取り上げる。*

  元禄15年(1702) 22歳  [6]一度の中老引
  正徳 6年(1716) 36歳  [14]四度の上衆引
  享保 5年(1720) 40歳  [22]百引勾当
  寛保 3年(1743) 63歳  [60]惣別当
  宝暦 5年(1755) 75歳  [67]惣晴検校

  * 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社,1974.p182

 この人は、正徳6年に[6]一度の中老引から、一気に[14]四度の上衆引に昇進した。 112両を一括払いする必要がある。 また、[14]四度の上衆引から[22]送物の百引ヘの昇進では、80両を納めたことになる。

 すでに見たように、座頭のうちで勾当以上に昇進するのは全体の1割程度に過ぎない。 彼らは一度に多額の金銭を納め、数刻ずつまとめて昇進していくのが通例であった。 このような官位の細分化は、名称を見れば一目瞭然、分配を受ける側の都合によるところが大きい。

 勾当35刻の官金を合計すると282両。勾当最上位の[53]権勾当の晴になるまでに必要な官金は、座頭までの分と合わせて454両になる。

 前のページで触れた明暦3年の文書によれば、勾当は全部で129人だった。 この人数は年ごとに変動するが、たかだかこの程度の人数が35もの位階に散らばっているわけであるから、該当者が一人もいないという位階もあったに違いない。 35刻の位階は人を配置する「ポスト」ではないから、該当者がいないことがあってもいっこうにかまわない。 80両とか100両とかの金銭を納めて、その金額で到達できる地位 ―― それを手に入れるというだけのことである。 座頭以下と勾当以上の人数に大きな差があることはすでに述べたが、一度から八度まである勾当の内部では、下が人数が多く、上に行くほど少なくなるピラミッド型の階層構造をしていたわけではない。


 有名な検校たちに混じって歴史にその名を残しながらも、地位としては勾当止まりの人物が散見される。

 たとえば、天明・寛政ごろに活躍した大坂の峰崎勾当。数ある地歌箏曲の中で今でも最もポピュラーなものの一つであり続けている「ゆき」などの作曲者である。 その才能は周囲の検校たちに劣っていたとは思えないが、当道の中での地位としては勾当にとどまった。 検校になるにはさらに金銭が必要なので、そこまでは財力が及ばなかった何らかの事情があったのかもしれないが、このような人を、勾当にしかなれなかったと見るべきか、勾当として活躍したと見るべきか。

 峰崎勾当よりもやや後の時代、文化・文政ごろの京都の石川勾当は、石川の三つ物と呼ばれる三大名曲をはじめとする芸術性の高い作品を作曲した。 周囲との折り合いが悪くて晩年は不遇であったなどとも伝えられているが、あくまでもごく一握りの上級盲人の中での「不遇」なのであって、日々の生活が才能を食いつぶすような貧乏だったわけではない。

 伝記のようなものが残っていないので詳細は不明だが、おそらく峰崎も石川も、若き天才と称賛されて、ごく早い時期に勾当に昇進しているのは間違いないのだが……。


《2010年12月》

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