塙保己一 4



愛染院

 東京都新宿区若葉2−8。

愛染院本堂    墓地入口の石標

 門前に新宿区教育委員会の説明板があり、内藤新宿の開発者・高松喜六と総検校・塙保己一がここに眠っていることを記している。 また、墓地の入口には「此の院内に塙保己一先生の墓」という案内の石標がある。

説明板
(漢数字を算用数字に改めた)

新宿区指定史跡
塙保己一の墓
        指定年月日 昭和59年11月2日

 『群書類従』の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生れた。
 姓は荻野、幼名は辰之助といった。
 五歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳の時江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。
 すぐれた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。
 天明3年(1783)検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手がけたが、寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
 文政2年(1819)『群書類従』を完成させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月『続群書類従』の編纂なかばで没した。 享年76歳であった。
 墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。 墓石は高さ103センチである。

        平成3年1月    東京都新宿区教育委員会
(東京都新宿区若葉2丁目 愛染院)

塙保己一の墓

 塙保己一の墓は、愛染院境内の墓地の奥寄りにあり、墓石には「前総検校塙先生之墓」と大きく書かれている。

塙保己一の墓

 墓域には保己一の墓の横に、妻「安養院」、娘「貞芳院」の墓が並び、その手前には、保己一の子孫にあたる塙忠宝、忠韶、忠雄、五郎の墓がある。

 さらに、保己一の墓の後ろの隅には、塙保己一の師である雨富検校の墓と伝えられる五輪塔がある。


安楽寺跡

 塙保己一は歿後、安楽寺に葬られたが、明治31年(1898)に安楽寺が廃寺となったため、愛染院に改葬された。 安楽寺は、愛染院とは背中合わせのような格好で東側に隣接していた。現在は住宅地となっていて、当時の面影はない。

安楽寺跡


《2010年6月》

塙保己一

塙保己一 2

塙保己一 3

検校列伝

当道