塙保己一旧宅
国指定史跡(昭和19年指定)
塙保己一旧宅前の説明板
(漢数字を算用数字に改めた)
塙保己一旧宅
昭和19年11月13日 国指定史跡 塙保己一は、延享3年(1746年)5月5日武蔵国児玉郡保木野村(現在の児玉町大字保木野)に生まれる。7歳にして失明し、15歳のとき江戸に出て、雨富検校の弟子になり、先生の許しを得て学問の勉強をしました。生来の記憶力のよさと努力により、賀茂真淵らのよき学者に指導を受け、国学を研究し、寛政5年(1793)に幕府に申し出て、和学講談所を創立し、安永8年(1779)から40年間かけて群書類従を編さん刊行するなど、学問上多大な貢献をし、文政4年(1821)総検校となり、この年9月12日76歳で亡くなりました。この旧宅は、保己一が生誕し幼時を過ごしたもので、かやぶき二階建てで、向かって左側に田字型の部屋右側に土間、厩(現物置)等があり、後世に若干の増築や補修の箇所があるもののよく当時の姿を残しています。 平成2年3月吉日 埼玉県教育委員会 児玉町教育委員会 (埼玉県本庄市児玉町保木野) |
塙保己一公園
塙保己一旧宅の西側。平成24年(2012)の墓所移転に伴い整備された。
墓碑
(表面) 和学院殿心眼智光大居士 言のはのおよはぬ身には目に見ぬもなかなかよしや雪のふしの嶺 保己一 (裏面)
文政四辛巳年九月十二日逝去 (埼玉県本庄市児玉町保木野) |
塙保己一墓所
塙保己一は延享三年(一七四六)五月五日に児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれました。七歳の時病により失明しましたが、十五歳で江戸に出て学問の道、特に国学を志し、のちに和学講談所を開設、さらに群書類従の編纂という後世に残る大事業を成し遂げました。文政四年(一八二一)に盲人としての最高位である総検校となりましたが、同年九月一二日に逝去し、四谷の医王山安楽寺に埋葬されました。 記録によると、保木野の墓所は明治十九年(一八八六)に安楽寺の墳墓の土を生家の荻野茂重郎が持ち帰り、先祖累代の墓地の南西隅に碑を建てて慰霊したのが始まりとされています。その後、明治四十四年(一九一一)に埼玉県児玉郡教育会が主催した正四位贈位奉告祭並びに没後九十年祭の時に荻野家先祖累代の墓地の東側に移転し、その際、保己一の孫の塙忠韶が保己一の法衣を持参し、瓶に収めて墓底に埋設したとされています。また昭和十六年(一九四一)には児玉郡内の児童生徒の募金により灯籠一基、敷石九枚、樹木等が寄贈されました。 平成二十四年(二〇一二)、墓所の老朽化による修繕と周辺の整備及び塙先生百年祭記念碑とともに顕彰することを目的として、墓碑、土、灯籠、敷石、玉垣を現在地へ移転し、台石、香炉、中仕切り石を新設しました。墓底の瓶は破損して土が入っていましたが、法衣は確認できなかったため、この土を三等分して現在の墓所と荻野家の墓地及び荻野家の菩提寺である実相寺の本堂に安置した瓶に収めました。 「世のため、後のため」、我が国の学問の振興に一生を捧げた郷土の偉人を偲び、その遺徳を今後も末永く顕彰して参りましょう。 平成二十四年九月十二日 総検校塙保己一先生遺徳顕彰会 (埼玉県本庄市児玉町保木野) |
塙保己一の里駐車場の説明板
塙保己一の里駐車場
盲目の国学者塙保己一は、延享3年(1746年)に、武蔵国児玉郡保木野村に生まれました。 幼時に失明し、その後、江戸へ出て区学の上、盲人の最高位総検校になりました。 国学者としても活躍し、「和学講談所」の設立、『群書類従』の刊行など大きな業績を残しました。 この本庄市児玉町保木野には、塙保己一の生家である国指定史跡「塙保己一旧宅」を始め墓地や記念碑が残されています。 平成24年2月 (埼玉県本庄市児玉町保木野) |
塙保己一記念館
開館時間 午前9時〜午後4時30分
アスピアこだま前の塙保己一坐像
塙保己一記念館パンフレット
塙保己一
盲目の国学者、塙保己一は本庄市が世界に誇る偉人です。 延享3年(1746)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれ、7歳で失明しました。15歳のときに大志を抱いて江戸に出て、盲人一座の雨富検校の弟子となりました。 修行を積むかたわら、萩原宗固や賀茂真淵等に学び、国学の道へ進みました。 34歳のとき”世のため、後のため”に『群書類従』の編さんを決意。以後、40数年の歳月をかけて、失われつつある各種文献を収集してまとめた『群書類従』正編666冊を完成させました。 また48歳のとき、「和学講談所」を設立、多くの門弟を育成し、国学の発展に大きな業績を残しました。 文政4年(1821)2月に盲人一座の最高位の総検校に就任し、この年の9月12日に江戸で死去しました。76歳でした。 記念館では塙保己一の遺品及び関係資料(埼玉県指定文化財)を収蔵展示し、保己一の残した偉業について紹介しています。 |
塙保己一記念館の見どころ(パンフレットに写真付きで紹介)
666冊に及ぶ群書類従(旧)塙保己一記念館
埼玉県本庄市児玉町八幡山446
塙保己一記念館
所在地 本庄市児玉町八幡山
塙保己一(1746〜1821)は、郷土が生んだ我が国有数の国学者である。
延享3年(1746)5月に武蔵国児玉郡保木野村(現本庄市児玉町保木野)に生まれ幼時に失明した。
15歳の時に志をたて江戸に出て雨富検校須賀一の門に入った。
音曲・針治療等の修行に励むとともに、自ら志した学問の道に進み、萩原宗固や賀茂真淵等に師事した。
その後、学者として名声が高まり、水戸藩の依頼により「大日本史」の校訂を行なった。寛政5年(1793)には幕府に進言して和学講談所を設立し、ここを国学研究の拠点となし、屋代弘賢・中山信名・奈佐勝皐等の有能な学者を輩出した。 保己一の業績で最も知られているのは「群書類従」の編さんで、古代以来我が国に残されてきた諸家の記録や貴重な書物の散逸を憂えて、これらを集めて分類・校訂して版木に起こし印刷刊行した。 「群書類従」は我が国の歴史や文学を研究する上で現在でもたいへん貴重な資料集となっている。 保己一は文政4年(1821)に総検校となり、同年9月12日に76歳で没した。 収蔵品 遺品及び歴史資料等 休館日 毎週月曜日・年末年始 開館時間 午前9時〜午後4時30分 入館料 無料 平成19年12月 本庄市教育委員会 (埼玉県本庄市児玉町八幡山) |
(旧)塙保己一記念館の「見学のしおり」
(原文は縦書き 漢数字を算用数字に改めた)
奇跡の大学者 塙保己一略伝
盲目の大学者塙保己一は、延享3年5月5日(1746年)武蔵国児玉郡保木野村(現児玉町大字保木野)百姓宇兵衛の長男として生まれました。 保己一は7歳のとき眼病を患い失明、15歳のとき志を抱き江戸に出て、雨富検校の門に入りました。 ここで、はり、あんまの修行に励みましたが、生まれながら不器用な保己一は、各種の業を身に付けることにたいへんな苦労をしました。 しかし、保己一の学問に対する情熱とその才能を見抜いた雨富検校は、不得意な業を無理強いすることなく、最も得意とする学問の道に進ませてくれ、 国学・和歌を萩原宗固に、儒学・漢学を川島貴林、律令を山岡浚明、簡単な医学を東禅寺の孝首座に、それぞれ学ばせてくれました。 雨富検校は、その後も保己一のため、生活面・精神面に強力な援助を惜しまず続け、保己一が38歳のときに亡くなりました。 この師のおかげで盲目の大学者塙保己一が誕生したといっても過言ではないでしょう。 保己一は、24歳(1769年)のとき、国学・和歌の師萩原宗固のすすめにより、賀茂真淵の門に入り、まず六国史を学び、歴史にも深い関心を示しました。 しかし、わずか半年後に真淵は病死してしまいました。 真淵の死は保己一にとって、大きな不幸でしたが、真淵に学んだことを基に、しだいに自己の学問を確立していきました。 当時、本居宣長も真淵の門にあり、また大田南畝(蜀山人)との親交もこのころから始まりました。 38歳(1783年)の若さで検校(旗本と同格の位)に進み、学者としての名声もあがり、40歳のときには、水戸藩の依頼により「参考源平盛衰記」「大日本史」の校正を行いました こうしたことからも、保己一が学者としていかに信用が高かったかがうかがえます。 寛政5年(1793年)48歳のとき、高弟の屋代弘賢、松岡辰方らに相談し、幕府に願い出て麹町六番町に国学の研究の場として、和学講談所を創立いたしました。 和学講談所を学校にたとえれば、塙保己一が学長の塙大学とでもいえましょう。 2年後には幕府の直轄となり、林大学頭の支配下に置かれ、保己一は、国学の御用をつとめることになりました。 儒学全盛の江戸時代において、和学講談所の存在は、我が国の国学発展に大きな影響を及ぼしたと言えるでしょう。 和学講談所は12年後には手狭となり表六番町(現千代田区三番町)に移転、拡張され、約72年間存続しましたが、幕府の崩壊と共に閉鎖となりました。 この頃よくうたわれた狂歌に「番町に過ぎたるものは二つあり、佐野の桜に塙検校」があり、保己一の偉大さを讃えたものでした。 また、和学講談所からは、屋代弘賢、松岡辰方、横田茂語、石原正明、中山信名らの大学者を輩出しています。 保己一は、学問にとって重要な基盤の造成に力を注ぐと共に、一方では人材の育成に心がけ、前述したように有能な人材を生み出しています。 70歳(1815年)のとき、特に学問的功績が認められ将軍家斉に御目見えを許され、文政4年(1821年)総検校となり、この年の9月12日に76歳で亡くなりました。 保己一の学問的活動のうち成果の最大のものは、やはり「群書類従」の編纂であり、次に和学講談所の創設、大日本史の校正及び数多くの編纂著述の書などが挙げられます。 「群書類従」は、保己一が後世に残す価値のある古い書物が将来なくなってしまうのを嘆き、 古代文献を集めて、校訂・分類のうえ、約40年間(1779〜1819年)かけて編纂刊行したもので、 保己一の遠い将来を見通した、卓越した考えの深さがうかがえます。 この「群書類従」は、正編と続編にわかれ、正編には文献資料1273部を530巻に納め、続編はさらに多く2200部を1000巻に納めており、 我が国屈指の大編纂物であり、古典文献の宝庫ともいうべきものです。 正編は、神祇・帝王・補任・系譜部等25部に分類され、目録1冊を含め666冊の版木本として完成されています。 続編は未完のまま現代に引き継がれ完成されたものです。 群書類従をはじめ、保己一が残した数千巻にのぼる書物は、いまなお学問をする人にとって、なくてはならない大切なものとなっています。 また、群書類従は日本の代表書物として諸外国に贈られ日本を知る貴重な資料として役立っています。 |