八橋城談(じょうだん)


 慶長19年(1614)、陸奥国の生まれ。出身地については異説もある。
 妙門派。坊主・寺尾城印。寛永16年(1639)11月(閏11月?)11日権成。
 貞享2年(1685)6月12日歿。法名・鏡覚院円応順心居士。墓所・浄土宗金戒光明寺(京都市左京区黒谷町121)。

 箏曲。近世俗箏の開祖。三絃を寺尾城印や柳川応一に、筑紫箏を法水に学ぶ。 雅楽調であった筑紫箏の調弦を半音を含んだ陰音階系に改め、十三の組歌を制定。


『本朝盲人伝』の八橋城談

    八橋城談
 八橋城談は磐城の人なり。或は曰く、摂津の人なりと。両目既に盲し、頴悟絶倫。 寛永中 江戸に至り、初め山住と称し、後 上永と改む。盲官 勾当より検校に進み、乃(すなわ)ち八橋と改む。 三絃を善くするを以て、其名 大いに著れ、柳川加賀都と名を斉(ひと)しうす。
時に筑紫の僧 法水なるもの善く箏を撫し、亦 江戸に来る。城談 就いて学ぶ。 法水 初め郷に在るや、箏を肥前の桂巌寺主玄恕に学ぶ。所謂(いわゆる)筑紫箏曲なり。其の音 雅楽に出づ。 法水 城談を見る毎に、必ず玄恕を称す。城談も亦往(おもむ)いて之を学び、竟(つい)に其の蘊奥を究む。
已にして東に帰る。乃ち意(おも)ふに、筑紫箏曲は其の音 甚だ美にして、雅淡清超。 然れども俗耳に入らずと。因て更に 新操十三曲及び改調子三ケツを制し、別に薄雲一曲あり。俗に雲井弄斎と曰ふ。
慶安中 京師に移住す。従ひ游ぶ者 頗る多し。 貞享二年六月十二日 年七十二にして歿す。洛東黒谷に葬る。 釈謚して鏡覚院円応順心居士と曰ふ。弟子北島、生田、倉橋、安村、長谷富の徒 皆其の曲を得て、一世に名あり。
天明四年六月十二日は其の百年忌辰なり。盲師 東都浅草観音堂側長寿院に集り、饋奠の礼を厚くし、各々一曲を奏し、且 碑を本所の天女祠畔に建てきと云ふ。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.35
 * 柳川加賀都 = 柳川応一。三絃柳川流の祖。
 * 三ケツ = 3曲と同義。ケツは、門がまえに癸。
 * 北島、生田、倉橋、安村、長谷富 = 北島城春生田幾一倉橋順正一安村頼一長谷富おかの一。いずれも八橋流箏曲の後継者。

 八橋城談は磐城の人なり。或は曰く、摂津の人なりと。 ―― 八橋の生国については、奥州平とする説が一般的である。 摂津説は、『嬉遊笑覧』(文政13年)が、『大幣』(貞享2年)の記述「寛永の初、摂州に加賀都・城秀といふ座頭、両人、三絃に堪能なり。 東武に至り、加賀都は柳川、城秀は八橋とて、共に検校となる」を引いて、「これによれば津の国の人にや」と考証している例がみられる。
(喜多村イン庭 =インは、竹かんむりに均=;『嬉遊笑覧』巻六之上;岩波文庫(三) p.147)


『世界盲人百科事典』の八橋城談

 〔八橋検校城談〕 今日の箏曲の創始者である.1614(慶長19)年,磐城の国に生まれ琵琶法師となった. 江戸に出て筑紫楽の箏を習い,その後京都に移って箏曲を創始し検校に任じられた.1685(貞享2)年,72歳で他界した. 古来の箏の調絃や演奏技術,あるいは演奏観念を根本的に改め,時代の要求に従ってこれを大衆の音楽として社会に普及した功績は高く評価される.

   ―― 『世界盲人百科事典』,p.109


『色道大鏡』の八橋伝

 現在伝えられている八橋城談の検校登官前後の事情は、ほとんどこの資料に基づく。

琴は、和漢共に管絃の大器にして、黄帝の時よりはじまれり。始皇帝は、琴ゆへにとらはれをまぬかれ給ふ。 和朝にしては、清見原天皇弾じ給ひぬれば、天人あまくだり、五節の舞をかなづ。其徳高く品芳しき事、あ げてかぞへがたし。しかりといへども、当道において、三味線の徳には超ず。寛永のはじめまでは、傾国の座にも てはやさざりき。然るに、八橋検校初度の上衆引たりし時、江戸において筑紫楽といふことを引いだし、人のもて あそびとなる。寛永十三年丙子年、花洛にのぼり、寺尾検校城印が下にて勾当職に任じ、山住と名づく。山住は 予が家来にして、勾当が老母を扶持し置たれば、予が家に入て五六ケ月滞留す。其時節、城言と謂し座頭 ありしが、筑紫琴をなげきて懇望し、既に山住が門弟となりて是を学び、大坂の万重といひし太夫職にひかせけるよ りことおこれり。其後寛永十六年己卯閏十一月に、山住勾当江戸より又上洛して検校職に任ず。山住を改めて、 上永検校、諱は城談といふ。其後又称号を改めて、八橋検校といへり。此時も猶、予が家に来りて一二月休息し、 武江の発足を待つ内に、八橋述作せし琴の秘曲といふを引て、旧友のものにきかせける。その時、城連・城 行といひける座頭両人、そばちかくありしが、是を懇望して伝へをうく。これより秘曲も世にひろまりて、ことごと く傾国の手にもわたれり。されども、琴は挙亭にて場をとるものなれば、さまでこのましからず、又よくひく人もま れなり。すぐれずしては聞おほせがたければ、なくてもくるしからずとしるべし。

  ―― 『色道大鏡』 巻七
 * 清見原天皇 = 天武天皇。
 * 初度の上衆引 = 当道の階位のひとつ。座頭15刻のうちの下から2番目。


八橋城談 外部リンク

  八橋検校とは(コトバンク)

  八橋検校(Wikipedia)

  八橋検校のこと < 聖護院八ツ橋総本店


《2010年6月》

八橋城談 2

八橋城談 3

検校列伝

当道