八橋城談 3



江島杉山神社 八橋検校碑

 東京都墨田区千歳1−8−2。

 江島杉山神社の「いわや」の石標の奥にある。八橋検校の250回忌に山田流箏曲協会が建立した。

江島杉山神社の八橋検校碑

(原文に適宜区切りのための空白を補う)
昭和九年六月十二日ハ 八橋城秀検校ノ二百五十
回忌ニ相当スルヲ以テ 本協会主催ノ下ニ 同年同
月九日 浄土宗大本山三縁山増上寺ニ於テ 大法要
ヲ厳修ス 而シテ大正十二年九月一日ノ関東大震
災ノ為メ破損セシ斯碑ヲ修理シ 礎石ヲ新ニシ 以
テ検校ノ偉勲ヲ永遠ニ賛揚シ 併セテ斯碑ヲ建設
シタル先人ノ誠意ヲ後世ニ伝ヘントス
  昭和十年六月十二日
             山田流箏曲協会


上野公園 八橋検校顕彰碑

 東京都台東区上野公園2 不忍池弁天堂前。

 弁天堂の手前左側に、八橋検校の生誕350年を記念して日本三曲協会が建立した「八橋検校顕彰碑」がある。
碑は3面から成り、中央部に「八橋検校顕彰碑」の文字が大書され、右には八橋の伝記「八橋検校史伝」が、左には八橋と箏曲の関わりを記した「頌辞」が刻まれている。

八橋検校顕彰碑

八橋検校顕彰碑の前の箏のモニュメント

八橋検校史伝
    八橋検校史伝

 俗箏の開祖八橋検校(やつはしけんぎょう)は慶長十九年奥州磐城平(現福島県平市)に
生る(別に九州小倉生の説あれども多くの文献による)盲目にして音楽を志し未だ在世中の
摂州堺の石村検校 虎沢検校 山野井検校の伝を受けて 摂津に加賀都(後の柳川検校)と
城秀(後の八橋検校)の二人の座頭の三味線名手ありと称された人物であった その加賀都
 三絃独自の本手を作って独立一流を樹てた そこで先鞭をつけられた城秀は潔く三絃を捨
てて一念発起 自らの進路を箏に求めて 従来の雅箏楽箏に着目 それをやさしく俗箏とし
て開発し 一般庶民の音曲として世俗に投ぜんことを念願して 転向邁進する事を決意した
即ち当時江戸に在った元善導寺の僧法水を慕うて江戸に下り 筑紫流の筝を学んだ その後
更に九州に下り肥前諫早の慶巌寺の玄恕(九州筑紫の善導寺の賢順の門弟)に随身して奥儀
を習得したとの説もある その後寛永十三年(八橋二十三歳)京都に上り 寺尾検校札下と
して職格を得て山住勾当となる 同十六年(二十六歳)昇進して上永検校となり 名を城談
と称し後に八橋検校城談と改む
 若き座頭の三絃名手の一人加賀都は京に上って柳川検校となり 座頭の一人城秀は江戸に
下り 後京に上って八橋検校となり 俗箏の開山として一流をひらいた その八橋の流れを
酌む者相ついで三百余年 箏の音と八橋の名は永遠に絶えないであろう
  八橋検校  慶長十九年生  貞享二年六月十二日歿  享年七十二歳
  法号  鏡覚院殿円応順心居士 墓碑は京都市左京区黒谷山内常光院(浄土宗)に在る

頌辞
    頌辞
 箏は古来雅箏や楽箏で知られていたが 概ね高雅に過ぎて庶民階級の音楽としては縁遠い
ものであった そこでこの箏を通俗化して民衆の音楽とすることを念願した八橋検校は 盲
人の音感性能と全身全霊をそれに傾注して箏曲の民衆化を企図した 即ち俗耳に入り易い箏
曲として 筑紫楽の曲を或は増補改訂し或は編曲して俗箏の新調(平調子)に乗せ 別に新
作を加えて 箏絃の十三本に因み十三曲を俗箏の本曲として世に出した 歌詞も古雅の格調
の高いを選び別に調子を雲井にして当時流行の弄斎節を唄った雲井弄斎と 外に歌詞のない
平調子の「しらべもの」六段八段乱輪舌を 箏の調べの真行草の純器楽曲とし 合わせて 
十七曲を今に伝承しておる 中でも六段は整然とした形式で 前奏の外格段何れも定規の拍
子数で三百年来些かの狂いもなく 現代まで流行をつづけている箏曲の代表曲である
そしてそれは八橋検校の魂のこもった音霊そのものの伝統である かくして脈々三百有余年
声楽万能の徳川期に 敢然として器楽性に富む箏曲を固守して 盲人独特の官能をもって 
箏の真韻を得て 生田山田その他の各流を生み 今も尚わが民族の楽心をあたためている
その功 は日月と共に消えないであろう
 斯くして非凡の卓見による八橋検校の抱負は筑紫箏に育ち俗箏として根を下ろし 三曲と
しての花を開き 邦楽に結実して今や国際的にまで進出している その筝曲の根幹は 実に
わが八橋検校の偉大なる功業に成るものである 昭和四十年は八橋検校生誕三百五十年祭に
相当するので 日本三曲協会はその功績を讃して記念演奏会を催し それを機会に輝かしい
検校の偉功を表彰して永遠に伝え 更に三百幾十年前の八橋検校の音霊と相通ずるものを 
六段に求めて 八橋精神こその風格芸魂を敬仰することにした  敢えて顕彰碑を建立する
所以であろう    昭和四十一年八月二十一日建之


《2010年11月》

八橋城談 2

八橋城談

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