座頭の積塔
『遠碧軒記』下ノ1


 座頭の石塔 毎年二月十六日の暁より始まる。 延宝三年二月十六日の塔人は、大久保加賀守殿の検校杉立なり。 職は渋谷なり。 座敷の中央に楊柳の枝をたて、枝に所々銀薄を貼し、扇子一本ひろげてかくるなり。 さて 瓶子一双 高盛一合あり。 石塔 光孝天皇の御忌にて、その報恩講なり。 それにより勾当衆分まで出座す。
 又 六月十九日の凉は、一分の納涼の遊宴なり。 故に所も狭く、暑の時分ゆへ遠方より座頭上京に及ばず、在京の者も検校は残らず出座、その外の勾当の上首一人計り出座す。 これも大抵の儀式は、石塔同様、ただ座の中央にたつる木が楓の木 こればかりの替わりなり。
 さて満座そろふと三老出座、その次二老、その次一老 出づ。 さて守瞽神を職事 持参してかくると、一老二老三老 焼香す。 さて満座の検校 座ながら拝す。 さて職事両人 左右へ別れて、それにて会所を守る。 関山派の僧一人出て、座頭に一人づつ心経々々と呼ばる。 これが光孝天皇への手向けに、心経を或ひは十巻百巻読申す程をとふ。 各々転読のほどを答ふ。 石塔も光孝天皇の為につむ事なり。 此の心経の事も、石塔にばかりある事なり、涼にはなき事なり。 吊ゆへの事にや。 此の僧は清聚庵と言ひて、関山派の僧を会所の留守居に倩(うつ)き置くなり。
 さて守瞽神を職事 巻きて、職の前へゆき、守瞽神を送り申すと言ひて宿へ遣はす、さて始め職事 満座の人数を一老出づると即告ぐ。 延宝三年には当座百五十人と言ふ也。 さて三方にて勾当まで雑煮を出す。衆分には足打なり。 さて銚子出て、一老の前へゆくと、検校左右へ一人づつ名をよびて一礼をす。 その内 晴の事を仕舞ひたる検校は、こしめせと言ふ。 晴を仕舞はぬ検校はかしこまると言ふ。 さて一老二老、次々の検校中へ銚子まはると、吾法眷弟子傍輩の内へばかり時宜をして、名をよびてから土器をまはす。 さて引渡の吸ひ物、検校の分は膳を引き替へ、勾当以下は雑煮の膳をそのまま置きて、吸物をひきて通る。 銚子二扁通してから、一老 祝儀と言ひて、一句平家の外のことをかたる。
 終に鳥羽の湊へ船が着て候と言ふと、一座の盲人 同音にヱイヤヱイヤと三音呼ぶ。 これは古へ 日向の座頭の知行あり、それが船にて鳥羽へ着くと米をあぐるまねびとなり。 さて塔人 延喜聖代と言ひて、平家の外の一句をかたる。 さて職事 太平子の口を開くと言ひて、右の銚子の口を開き、銚子へつぎてまはす。 さて座頭の四派より一人づつ平家を語る。 延宝三年には、北島は月見、浅利は横笛、石田は竹生島詣、池田は千手なり。 これにて一会 済なり。 古は晩に四条鴨河へ出て、石の塔を積み拝すとなり、今はなし。
 さて守瞽神は、山王の二十一社の内十社を祭ると言ふ。 座頭の申すは、光孝天皇の皇子に雨夜王子と言ふあり。 盲人なり。 これを憐愍によりて、座頭中の官位を定めて、即 日向にて座頭中への知行を御申付ありと言ふ。 又 上賀茂にも盲人の名田あり。 今は社家へとる。 それゆへに田舎より上る盲人を、賀茂の社家にては五七日づつは養ふとなり。 雨夜御子の事、慥なる本書には見えず。
 さて稲葉美濃守殿 高山所持の頻迦と言ふ琵琶を求めらる。 美濃守殿より弘文院へ此の記をかかせらる。 座頭中へ此の琵琶を下され、宿神と一所に検校の首へまはせとなり。 今度 北島此の琵琶にて語る。 琵琶の名に青海波など言ふもあり。 楽の名にてつくるが多し。 子細有るべき事なり。 頻迦は日本のものなれども、名弦にてよく鳴るなり。
 * 大久保加賀守 = 唐津藩主(のち小田原藩主)・大久保忠朝(1632〜1712)。
 * 杉立 = 杉立べん一
 * 渋谷 = 渋谷忠一
 * 北島 = 北島城春
 * 浅利 = 浅利せう一
 * 石田 = 石田城だん
 * 池田 = 池田繁一
 * 稲葉美濃守 = 小田原藩主・稲葉正則(1623〜1696)。
 * 高山 = 高山丹一
 * 弘文院 = 弘文院学士・林鵞峰(1618〜1680)。


《2011年6月》

近世の当道見聞録

当道