高山丹一(たんいち)


 師堂派。坊主・徳嶋勾当。寛永9年(1632)8月2日歿。法名・高山院覚誉清本居士。

 「誕一」とも。


『本朝盲人伝』の高山丹一

    高山丹一
 高山丹一は夙に両眼を盲し、検校となる。曾て東照台徳二公の命を奉じて琵琶を弾じ、平家物語を誦す。二公 其の精妙を賞す。
丹一 弟子多し。小守検校温一 出藍の誉あり。其の弟子並川検校安一も亦その技に精(くわ)し。
其の弟子茨木検校 名は果一、亦妙手たり。初め丹一蔵する所の琵琶の面に、法眼狩野元信の画瀑布の図あり。太白滝と号す。 果一も亦琵琶を得、その響きの清亮なるを以て自然と号し、珍重措かず。 大和守久世広之、法印狩野探幽に命じて白涛淘湧の状を画がかしめ、名を鳴門と改め、弘文院学士林叟 之が記を作ると云ふ。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.23
 * 東照台徳二公 = 徳川家康・徳川秀忠
 * 小守検校 = 小寺検校の誤り
 * 狩野元信 = 1476〜1559。狩野派絵師。
 * 大和守久世広之 = 1609〜1679。下総関宿藩主。
 * 狩野探幽 = 1602〜1674。狩野派絵師。


大久保長安事件と高山丹一

 慶長18年(1613)、幕府で権勢をふるった大久保石見守長安が歿し、生前の不正が露顕する。 それに伴い、長安のもとに出入りして庇護を受けていた高山検校らも連座して罪を問われた。

 此日京にては大久保石見守長安が事に坐し、瞽者多く罪を蒙る。近年平家琵琶の妙手とよばれし高山淀一検校もこれに坐す。

  ―― 『台徳院殿御実紀』 慶長18年(1613)6月22日
 * 淀一 = 誕一。

 『台徳院殿御実紀』は、その後の経過を次のように記す。

 「さきに大久保石見守長安が事に座して、瞽者多く罪をかうむりしかば、これを謝せんがため総検校以下六十余人、京より駿府に参着せり。」(慶長18年8月6日)

 「先に大久保石見守長安が事に坐して、罪蒙りたる瞽者の事、松平右衛門佐正綱、後藤庄三郎光次が請ふ旨により御ゆるしあり。」(慶長18年9月16日)

 ちょうどそのころ、徳川家康に仕える小姓の梅千代という者が、にわかに盲目となった。 梅千代は入座して、即日河内検校を名乗った。 ひとつの可能性として、梅千代の検校への登用は、高山丹一らの赦免との「取引」の結果であったとも想像される。


高山丹一 外部リンク

  高山検校とは(コトバンク)


《2013年9月》

検校列伝

当道