石田城だん


 大山方。坊主・藤田城けい。寛永18年(1641)2月23日権成。


石田流三間飛車の検校

 将棋の石田流三間飛車戦法の創始者として著名な石田検校はこの人か。

 黒川道祐の随筆『遠碧軒記』には、延宝3年(1675)の積塔会を実際に見聞した時のようすが細かに記されている。以下に一部を引用する。

 「さて 頭人 延喜聖代と言[ひ]て、平家の外の一句をかたる。さて 職事 太平子の口を開くと言[ひ]て、右の銚子の口を開[き]、銚子へつぎてまはす。 さて座頭の四派より一人づつ平家を語る。延宝三年には、北島は月見、浅利は横笛、石田は竹生島詣、池田は千手なり。これにて一会済[む]なり。」

 ここに名が現われる「石田」は石田城だんであると考えられる。 積塔会では頭人(塔人)が属する派を除く当道の各派から一人ずつ出て、平家の一句を語る。 この年の積塔会で頭人を務めたのは師堂派の杉立べん一であるから、四派から一人ずつというのは、師堂派以外の各派ということになる。 この時に平家を語った者は、北島城春(妙門派)、浅利せう一(妙観派)、池田繁一(戸島方)であるから、 もう一人の「石田」は大山方の石田城だんであると考えて間違いない。

 いっぽう、将棋で有名な石田検校であるが ――。

    石田某
 石田某は検校にして、将棋を善くす。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.190

 『本朝盲人伝』の記述はきわめて簡単なものにとどまっているが、将棋の石田検校は肥後の人と伝えられ、17世紀中ごろに活躍した檜垣是安、広庭中書らとの対局の棋譜が残されている。 石田検校が大和の源右衛門という人と対戦した将棋が『近来象戯記大全』に載っているが、対局日が寛文8年(1668)1月16日と記録されている。 日付が判明している石田検校の将棋で最も時代が下るものは、この対局のようである。

 このころに石田という在名を名乗った検校は石田城だんをおいてほかになく、したがって、将棋の石田検校はこの石田城だんのことであると考えられる。 検校登官後、少なくとも30年以上も生きているのであるから、登官時の年齢は比較的若くて20代から30代のころのことであっただろう。 寛文8年の将棋、延宝3年の積塔会はかなり晩年のことであると推測される。

 ※ この項に関しては、温故知新 様の「手合集」所収の 「近来象戯記大全」ほかを大いに参考にさせていただきました。


《2011年4月》

検校列伝

当道