職惣検校 | 当道に関する事項 | その他の関連事項 | 人物:歿(享年) | |
※ 検校の在名・都名には複数の異表記があるが、ここでは主として『職代記』によった。 ただし一部例外もあり、またWEBにおけるの表記上の都合で便宜的に処理したものもある。 | ||||
9代 森沢城文 (1496〜1503) | ||||
文亀3(1503) | 4/28 森沢城文〈妙門派祖・惣検校〉 | |||
10代 広川拝一 (1503〜09) | 広川拝一、森沢惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
永正5(1508) | 4月 足利義澄、将軍辞職。7月 足利義材(のち義稙と改名)、将軍に再任。 | |||
5/2 尋尊(興福寺大乗院門跡)歿。 日記『大乗院寺社雑事記』(1450〜1508)には当道関係の記述も多い。 | ||||
永正6(1509) | 8/15 広川拝一〈惣検校〉 | |||
11代 若山秀一 (1509〜28) | 若山秀一、広川惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
永正15(1518) | 『閑吟集』成立。 | |||
永正16(1519) | 長松等一が周防国に下向、死亡したという噂が流れ、松村福一が等一の弟子を継承した旨を届け出る(座中天文事件の発端)。 | |||
永正18 大永元(1521) | 足利義稙、将軍辞職。 12月 足利義晴、12代将軍となる。 | |||
死亡したとされた長松等一が京都に戻り、弟子継承の件は松村福一の策謀であるとして座中に訴え出る。座法により、福一は不座となる。 | ||||
大永3(1523) | 足利義稙歿。 | |||
享禄元(1528) | 10/19 若山秀一〈惣検校〉 | |||
12代 山村賀一 (1528〜32) | 山村賀一、若山惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
享禄4(1531) | 9/13 『宗長日記』に「小座頭あるに、浄瑠璃をうたはせ興じて一盃にをよぶ」の記事。 | |||
天文元(1532) | 13代 宮島積一 (1532〜34) | 宮島積一、山村惣検校の隠居により職惣検校となる。 | ||
天文2(1533) | 鷲尾隆康歿。 『二水記』(1504〜33)を著す。 | |||
天文3(1534) | 9/16 宮島積一〈惣検校〉 | |||
14代 金山城見(1534〜35) | 金山城見、宮島惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
長松等一の弟子の帰属をめぐって座中を二分した抗争が起きる(座中天文事件)。 二老・森岡祥一、八老・富吉陽一らは新座を結成。本座は惣検校・金山城見以下270名余、新座は森岡祥一以下150名余。 | ||||
10/6 久我家、当道に対し松村福一の帰座を命じる。 | ||||
10/21 当道本座、南御所の中老恵玉庵(後奈良天皇の祖母)に助力を依頼。 | ||||
天文4(1535) | 1/29 長松等一が死去。 | 1/29 長松等一 | ||
3/9 当道座中の評議により、死亡した長松等一の弟子については田寺喜一が継承すべき旨を決定する。 | ||||
4月 当道本座、福一の策謀を訴え、等一の弟子を田寺喜一が継承したことを奏上する。 | ||||
5/3 金山城見〈惣検校〉 | ||||
15代 松崎天一 (1535〜41) | 松崎天一、金山惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
9/26 管領(細川晴元)が管領代茨木長隆の名で、当道の主張を認める下知状を与える。 | ||||
天文5(1536) | 2月 久我家、積塔会の塔人を松村福一に務めさせるよう、当道本座に命ずる。 本座はこれを拒絶。積塔会は延期される。 | |||
天文法華の乱。 京都市中における法華宗の勢力が衰退。法華宗を後ろ楯としていた当道新座は打撃を受ける。 | ||||
天文6(1537) | 6/11 当道本座、19条から成る和解案を提出。 | |||
7/28 茨木長隆、両座に対して本座側の主張を全面的に認める下知。 これにより、久我家は当道に対する実権を失い、新座の森岡祥一は殿中出仕を遠慮、松村福一は不座とされる。 | ||||
天文8(1539) | 6/28 森岡祥一(80) | |||
天文9(1540) | 3月 宮城倫一が座中天文事件の経緯を記した『座中天文物語』を筆録させる。 | |||
天文10(1541) | 12/22 松崎天一〈惣検校〉 | |||
16代 竹島芳一(1541〜66) | 竹島芳一、松崎惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
天文13(1544) | 近衛尚通歿。 日記『後法成寺尚通公記』(後法成寺関白記=1506〜36)。 | |||
(?) 松村福一? | ||||
天文15(1546) | 12月 足利義晴、将軍辞職。足利義輝、13代将軍となる。 | |||
永禄8(1565) | 5月 足利義輝歿(永禄の変)。 | |||
永禄9(1566) | 2/13 竹島芳一〈惣検校〉 | |||
17代 田寺喜一 (1566〜80) | 田寺喜一、竹島惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
永禄11(1568) | 2月 足利義栄、14代将軍となる。同年秋歿して、10月、足利義昭が15代将軍となる。 | |||
永禄年間 | 琉球より蛇皮二絃の楽器伝来、堺の中小路がこれを改良して三味線をつくる(『糸竹大全』)。 | |||
元亀4(1573) | 織田信長、将軍足利義昭を追放。室町幕府滅亡。 | |||
天正7(1579) | 山科言継歿。『言継卿記』(1527〜76)。 | |||
天正8(1580) | 10/29 田寺喜一〈惣検校〉 | |||
18代 松本鏡一(1580〜92) | 松本鏡一、田寺惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
天正10(1582) | 6/2 本能寺の変。 | |||
天正20(1592) | 1/14 松本鏡一〈惣検校〉 | |||
19代 藤井伝一 (1592〜1607) | 藤井伝一、松本惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
文禄3(1594) | このころ、滝野勾当(のち検校)、浄瑠璃に節をつけて語り始める。 | |||
文禄年間 | 石村検校、琉球に渡り三味線を将来(『糸竹初心集』)。 | |||
慶長5(1600) | 9/15 関ヶ原の戦い。 | |||
慶長年間 | このころ、沢住検校、浄瑠璃に三味線の伴奏を付ける。 | |||