職惣検校 | 当道に関する事項 | その他の関連事項 | 人物:歿(享年) | |
※ 検校の在名・都名には複数の異表記があるが、ここでは主として『職代記』によった。 ただし一部例外もあり、またWEBにおけるの表記上の都合で便宜的に処理したものもある。 | ||||
(南北朝期の年号は北朝のもののみを記した) | ||||
暦応元(1338) | 8/11 足利尊氏、征夷大将軍に任じられる。 | |||
暦応3(1340) | 2/4 『師守記』の著者中原師守が六条御堂で初めて「覚一平家」を聴く。「異形」と記述。 師守は、その後、貞和3年(1347)矢田地蔵堂でも「覚一平家」を聴いている。 | |||
暦応4(1341) | 明石覚一、高師直の前で琵琶を弾じる(『太平記』)。 | |||
延文3(1358) | 4/30 足利尊氏歿。12月に足利義詮が2代将軍となる。 | |||
初代 明石覚一(?) | ||||
貞治2(1363) | 閏1/3 中原師守の主君が五条高倉で「覚一検校平家」を聴く(覚一に検校の肩書が付された最初の記録)。 後世の記録は覚一を初代の惣検校とするが、在世時代の記録には覚一が惣検校であったという記述はない。 | |||
応安元(1368) | 12月 足利義詮歿。足利義満が3代将軍となる。 | |||
応安4(1371) | 3/15 明石覚一、『平家物語』を一字も欠かさず書写させて、定一に譲る(覚一本『平家物語』奥書)。 | |||
6/29 明石覚一(70余) | ||||
定一(?) | 「惣検校」の文字が現われるのは次の塩小路慶一からであるが、慶一は明石覚一とは年代が離れているため、覚一のあとを直接継承したとは考えにくい。 慶一は覚一の弟子の定一に師事しているので、覚一と慶一をつなぐ人物として定一が想定される。 | |||
応安7(1374) | 中原師守の『師守記』(1339〜74)成立。 明石覚一に関する記述が散見される。 | |||
永和4(1378) | 足利義満、京都室町に花の御所を造営する。 | |||
明徳3(1392) | 南北朝合一される。 | |||
応永元(1394) | 12月 足利義満、将軍辞職。足利義持、4代将軍となる。 | |||
応永6(1399) | 定一、『平家物語』を清書して室町殿(足利義満)に進上。 | |||
応永12(1405) | 6/19 この年の涼会に座頭検校等81人が会合(『教言卿記』)。 | |||
(応永14以前) | 2代 塩小路慶一 ( 〜1436) ※ 城存(八坂方惣検校)も並立 | |||
応永14(1407) | 1/21 『教言卿記』に「惣検校慶一」の記述(惣検校の初見)。 | |||
応永15(1408) | 5/6 足利義満歿。 | |||
応永17(1410) | 12/15 山科教言歿。 『教言卿記』(1405〜10)に琵琶法師に関する記述あり。 | |||
応永23(1416) | 伏見宮貞成親王の『看聞日記』(看聞御記)の記述、この年より始まる。 このころから竹永総検校時代までの約50年間、平曲の大隆盛時代となる。 | |||
6/8 『看聞日記』、椿一検校を「当時の名望有る堪能の者なり」と記す。 | ||||
応永27(1420) | 6/9 『看聞日記』、(井口)相一、(疋田)専一(=仙一)を「当世の名人なり」と記す。 | |||
応永29(1422) | 3月 足利義持、将軍辞職。足利義量、5代将軍となる。 | |||
応永30(1423) | 6/5 城竹検校、伏見宮の前で平家六句を語る。『看聞日記』は「音声殊勝なり」と記す。 | |||
応永32(1425) | 2月 足利義量歿。 | |||
応永35(1428) | 1月 足利義持歿。足利義教、6代将軍となる。 | |||
永享6(1434) | 2月 城竹、この年の積塔会の塔人を務める。 | |||
5/21 『満済准后日記』に「惣検校城存」の記述。 塩小路慶一と同時代に八坂方の惣検校として城存が並立していたことを想定させる。 | ||||
永享7(1435) | 満済(醍醐寺座主)歿。 『満済准后日記』(1411〜35)を著す。 | |||
永享8(1436) | 6/15 塩小路慶一〈惣検校〉 | |||
3代 井口相一 (1436〜53) ※ 城存(八坂方惣検校)も並立 | 井口相一、塩小路惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
永享9(1437) | 3/9 戒浄という法師が流罪となり、その家宅を宗一(=井口相一)が拝領する(『看聞日記』)。 | |||
4/7 宗一(=井口相一)、北野の参籠の際に面目を失い、先月拝領した家を返納させられる(『看聞日記』)。 | ||||
嘉吉元(1441) | 6/24 将軍足利義教、赤松光祐に殺害される(嘉吉の乱)。 | |||
嘉吉2(1442) | 11月 足利義勝、7代将軍となる。 | |||
嘉吉3(1443) | 7月 足利義勝歿。 | |||
この年、世阿弥元清歿か? | ||||
文安5(1448) | 8/19 『臥雲日件録』に「城存尚在焉」の記述。 | |||
文安6(1449) | 4月 足利義政、8代将軍となる。 | |||
享徳2(1453) | 1/20 井口相一〈妙観派祖・惣検校〉 | |||
4代 疋田仙一 (1453〜55) | 疋田仙一、井口惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
康正元(1455) | 11/3 疋田仙一〈師堂派祖・惣検校〉 | |||
5代 竹永想一 (1455〜62) | 竹永想一、疋田惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
康正2(1456) | 8/29 伏見宮貞成親王歿。 『看聞日記』(1416〜48)に琵琶法師の記述多数。 | |||
長禄3(1459) | 9/12 椿一(69) | |||
9/26 戸嶋嶺一〈戸島方祖〉 | ||||
寛正3(1462) | 3/29? 竹永想一〈源照派祖・惣検校〉 | |||
6代 川島寿一 (1462〜66) | 川島寿一、竹永惣検校の死去により職惣検校となる。 『碧山日録』によれば、竹永惣検校の時代、京都には500〜600人の琵琶法師がいたといわれる。 | |||
文正元(1466) | (?) 川島寿一〈惣検校〉 | |||
7代 竹村牧一 (1466〜79) | 竹村牧一、川島惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
応仁元(1467) | 応仁の乱起こる。 | |||
応仁2(1468) | 東福寺の太極の日記『碧山日録』。1459年からこの年までの記事が伝わる。 | |||
文明2(1470) | 増一検校と顕一勾当の間で弟子の帰属をめぐる争いが起きる。惣検校が裁定を下す(『大乗院寺社雑事記』)。 顕一は、これ以前の長禄2年(1458)にはすでに検校となっている。その後、文明12年(1480)まで勾当と記される。争いに敗れて降格となったものか? | |||
文明5(1473) | 6/3 相国寺の瑞渓周鳳歿。 日記『臥雲日件録』(1446〜73)を著す。 | |||
12月 足利義政、将軍辞職。足利義尚、9代将軍となる。 | ||||
文明11(1479) | 2/20 竹村牧一〈惣検校〉 | |||
8代 宮川竺一 (1479〜96) | 宮川竺一、竹村惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||
文明12(1480) | 2/22 大和国の盲人300人が蜂起(『大乗院寺社雑事記』)。 | |||
長享3(1489) | 3月 足利義尚歿。 | |||
延徳2(1490) | 1月 足利義政歿。7月 足利義材、10代将軍となる。 | |||
明応2(1493) | 足利義材、将軍職を解かれる。翌年、足利義澄、11代将軍となる(明応の政変)。 | |||
明応5(1496) | 9/10 宮川竺一〈惣検校〉 | |||
9代 森沢城文 (1496〜1503) | 森沢城文、宮川惣検校の死去により職惣検校となる。 | |||