杉山和一 3



江ノ島

 相州江ノ島は、弁財天を信仰した杉山和一が参籠の末、管鍼のアイデアを得た地として、また後に本所一ツ目に勧請した江島杉山神社の本社が鎮座する島として、杉山和一とのかかわりが深い。

杉山和一墓所

 江島神社の大鳥居から西へ100mほどのところ、海に面した西浦霊園にある。入口には案内の標柱があり、そこから階段を下ると墓所に至る。

墓所の案内標柱     杉山和一墓

 墓所の入口にある説明板(日本語、英語、中国語、韓国語)

杉山検校の墓
 杉山検校(和一)は慶長15年(1610年)、伊勢国に生まれました。 幼い時に失明し、山瀬検校、入江豊明などの有名なはり医に学んでいました。 その時に、江の島岩屋に21日の間、参籠し、ついに管鍼の術を創案したといわれています。
 そして5代将軍徳川綱吉の信任をうけて、江戸本所に邸宅を賜り、元禄5年(1692年)には、下之宮(現辺津宮)境内に護摩堂を建て、翌年には三重塔を建てて寄進しました。
 元禄7年(1694年)に本所の私邸で亡くなり、近くの弥勒寺に葬られました。 この墓碑は一周忌の命日(5月18日)に、次の総検校、三島安一が造立したものです。
 墓碑は笠塔婆型に造られています。昭和38年(1963年)藤沢市指定文化財「史跡」に指定されました。
        藤沢市教育委員会

 墓の右側にある説明板(点字が併記されている)

杉山和一の墓
 杉山和一(検校)は慶長15年(1610)、伊勢国に生まれました。幼い時に失明し、山瀬検校、入江豊明などの有名なはり医に学んでいました。 その時に、江の島弁財天社に21日間参籠し、管鍼の術を創案したといわれています。
 そして徳川5代将軍綱吉の信任を受け、江戸本所に邸宅を賜り、江の島弁財天信仰が篤く、下之宮(現在の辺津宮)境内に護摩堂や三重塔を建立寄進しています。
 元禄7年(1694)に本所の邸宅で亡くなり、弥勒寺(東京)に葬られました。この墓碑は一周忌の命日(5月18日)に、次の総検校、三島安一が造立したものです。
 墓碑は笠塔婆型に造られています。昭和38年(1963)藤沢市の指定文化財「史跡」に指定されました。
        藤沢市教育委員会

      スギヤマ ワイチ ハカ
  スギヤマ ワイチ(ケンギョ―)ワ ケイチョー 
15(1610)ネン、 イセノ クニニ ウマレマシタ。
オサナイ トキニ シツメイ シ、 ヤマセ ケンギョー イリエ 
トヨアキナドノ ユーメイナ ハリイニ マナンデ イマシタ。
ソノ トキニ エノシマ ベンザイテンシャニ 21ニチカン 
サンロー シ、 クダバリノ ジュツヲ ソーアン シタト 
イワレテ イマス。
  ソシテ トクガワ 5ダイ ショーグン ツナヨシノ 
シンニンヲ ウケ、 エド ホンジョニ テイタクヲ タマワリ、 
エノシマ ベンザイテン シンコーガ アツク、 
シモノミヤ(ゲンザイノ ヘツノミヤ) ケイダイニ
ゴマドーヤ 3ジューノ トーヲ コンリュー キシン シテ 
イマス。
  ゲンロク 7(1694)ネン ホンジョノ 
テイタクデ ナクナリ ミロクジ(トーキョー)ニ 
ホームラレマシタ。
 コノ ボヒワ 1シューキノ メイニチ(5ガツ 
18ニチ)ニ、 ツギノ ソーケンギョー ミシマ ヤスイチガ 
ゾーリュー シタ モノデス。 ボヒワ 
カサトーバガタニ ツクラレテ イマス。 ショーワ 
38(1963)ネン フジサワシノ シテイ 
ブンカザイ(シセキ)ニ シテイ サレマシタ。
        フジサワシ キョーイク イインカイ

 墓の左側にある説明板

杉山和一の墓
Tomb of Kengyo Sugiyama

 杉山検校は慶長15年(1610年)伊勢国に生まれました。
 幼い時に失明し、山瀬検校、入江豊明などの有名なはり医に学んでいました。 その時に、江の島弁財天社に21日の間やまごもりして礼拝し、ついに管鍼の術を創案したといわれています。
 そして徳川5代将軍綱吉の信任をうけて、江戸本所に邸宅をかまえ、元禄5年(1692年)には護摩堂を建て翌年には三重塔を建てて寄進しました。 元禄7年(1694年)に本所の私邸で亡くなり近くの弥勒寺に葬られました。 この墓碑は一周忌の命日(5月18日)に、次ぎの総検校、三島安一が造立したもので、分骨埋葬されたと思われます。
 墓碑は笠塔婆型に造られています。昭和38年藤沢市重要文化財(史跡)に指定されました。

        藤沢市 教育委員会
        藤沢市 観光課

福石

 江島神社辺津宮のすぐ下にある。 伝承によれば、和一は、この石につまずいた際に、手(あるいは足)に筒に入った松葉が刺さり、それによって管鍼の着想を得たとされる。

福石とその周辺
(2009年6月撮影)

左から、「福石」、「ゑのしま道道標」、「福石を示す石標」、「杉山検校の碑」、「福石の説明板」。

     福石     杉山検校の碑

杉山検校の碑

 福石の右側にある。杉山和一の業績とこの石碑の建立の由来が漢文で記されている。

古来盲於心者滔滔皆是若杉山検校独盲於目爾其心之明技之精蓋天下所希覯矣検校■藤原諱和
一初名養慶父権右衛門諱重政仕藤堂高虎及高次屡有武功母稲冨氏尾州藩士伊賀守■直之女慶
長十五年庚戌生於伊勢津藩邸幼時失明及長来于江戸就検校山瀬琢一及鍼医入江豊■学鍼術初
検校甚不慧師琢一指示雖勉健忘不記終怒逐之検校悲憤抵江之島祈天女祠断食七日■曰技若不
成請賜死及期困倒如死恍惚中神授鍼與管蘇而大覚剏造管鍼試其術有効爾後益精励技頓進終詣
玄妙成一派之宗祖矣延宝中将軍徳川家綱召見尋侍綱吉之病有功綱吉一日欲賞之問其所欲対曰
臣於世無所希倖只顕得一目綱吉憫而諾之乃賜宅于本所一目里給禄五百石為関東惣録検校時元
禄五年五月九日也後同七年三月十日増禄為八百石命設館於其宅地教授諸生及門弟子甚多後門
人三嶋安一更請官開講堂於各地其術卒遍于天下其流今尚盛検校所著医学節要選鍼三要療治大
概皆以発揮其秘蘊元禄七年甲戌五月十八日病没享年八十有五葬于江之島法謚曰前総検校即明
院殿眼叟元清権大僧都無子養子重昌継伊豆松崎人石田平吉氏亦幼失明修杉山流鍼術為業夙有
志于崇祖與杉山講員諸氏胥謀以検校二百七回忌辰修墓域別建碑于福石之傍蓋福石検校始試管
鍼所穿徹者云石田氏介同郷人森桐三郎氏請余文記之余與森氏交厚且余亦旧津藩人於検校非無
縁乃不辞記之銘曰 維山欝欝 維水迢迢 老杉不朽 千古喬喬  明治三十三年五月
                      東京 無爵真人 森斌撰文并書

(便宜的な書き下し文)
 古来 心に盲なるは滔滔たり。皆是れ若(も)し杉山検校 独り目に盲にして その心の明 技の精 蓋(けだ)し天下に希覯する所なり。
 検校 ■(=姓)は藤原 諱は和一 初名は養慶。父 権右衛門 諱は重政 藤堂高虎及び高次に仕え 屡(しばしば)武功あり。母 稲冨氏 尾州藩士伊賀守■直の女なり。
 慶長十五年庚戌 伊勢津藩邸に生まる。幼時に失明し 長ずるに及んで江戸に来たりて 検校山瀬琢一及び鍼医入江豊■(=明)に就き 鍼術を学ぶ。 初め 検校 甚だ慧(さと)からず。師琢一 指示して勉ずるといえども 健忘して記さず。終(つい)に怒りて これを逐(お)う。
 検校 悲憤して江之島に抵し 天女祠に祈りて断食七日■ 曰く「技 若し成らざれば 死を賜うことを請う」と。 期に及びて困倒し 死せるが如き恍惚中に 鍼と管とを神授さる。蘇(よみがえ)りて大いに覚め 剏(はじ)めて管鍼を造りて其の術を試し 効有り。
 爾後 益(ますま)す精励し 技 頓進して終(つい)に玄妙を詣し 一派の宗祖を成す。延宝中 将軍徳川家綱 召見して尋侍す。
 綱吉の病に功有り。綱吉 一日これを賞さんと欲し その欲する所を問う。対えて曰く「臣 世に希倖する所なし。ただ一目を顕得せん」と。 綱吉 憫(あわれ)みてこれを諾し すなわち本所一目の里に宅を賜う。禄五百石を給い 関東惣録検校となす。時に元禄五年五月九日なり。
 後 同七年三月十日 禄を増して八百石となし 命じて館をその宅地に設け 諸生を教授す。門に及ぶ弟子 甚だ多し。 後 門人三嶋安一 更に官に請い 講堂を各地に開き その術 遍く天下に卒す。その流 今なお盛んなり。 検校 著す所『医学節要』『選鍼三要』『療治大概』皆以てその秘蘊を発揮す。
 元禄七年甲戌五月十八日 病没す。享年 八十有五。江之島に葬る。 法謚して曰く 前総検校即明院殿眼叟元清権大僧都と。子無くして 養子重昌継ぐ。
 伊豆松崎の人 石田平吉氏 また幼にして失明し杉山流鍼術を修め 業となす。 夙(つと)に崇祖に志有りて 杉山講員諸氏と胥(あい)謀りて 以て検校二百七回忌に墓域を辰修し 別に碑を福石の傍らに建つ。 蓋し福石は 検校始めて管鍼を試す所なり。
 穿徹者 云う。石田氏 同郷の人森桐三郎氏を介し 余に文を請いてこれを記せしむ。 余と森氏交り厚く 且つ余はまた旧津藩人 検校に縁なきにあらざれば すなわち辞さずしてこれを記し銘して曰く。
      維(こ)れ山は欝欝たり 維(こ)れ水は迢迢たり 老杉は朽ちずして 千古に喬喬たり
        明治三十三年五月
            東京 無爵真人 森斌 撰文并びに書 

岩屋

 島の南西側の断崖部にある。杉山和一はここで7日間(あるいは21日間)参籠し、その帰途で福石につまずいて管鍼を考案したという。 第1岩屋(152m)、第2岩屋(112m)の2つの洞穴があり、中に入ってみることができる(入場料500円)。


《2010年6月》

杉山和一

杉山和一 2

検校列伝

当道