河内喜見一(きげんいち)


 妙観派。坊主・安澤ほう一。慶長18年(1613)9月17日権成。

 明暦3年(1657)ごろ三老。明暦3年以後、万治2年(1659)以前に歿か。

 徳川家康の小姓であったらしいが、にわかに盲目となって当道に入ったという。

 又小姓河内梅千代某俄に目しいたるにより、瞽者の座に入らしめ検校たらしむ。

  ―― 『台徳院殿御実紀』 慶長18年(1613)9月16日
 御赦免ノ面々於上野被仰渡、河内検校、是ハ往昔権現様御小姓成シガ眼病ニテ両眼盲タリ、不便之由上意ニテ検校ニ仰付。其後数年ヲ経テ河内検校弟子公事ニ負、大猷院様御代ニ不座仕ケルヲ今度御免アリ。

  ―― 『御日記』 承応2年(1653)6月24日

 河内検校が「弟子公事」に負けて不座となった件は、『徳川実紀』(大猷院実紀)に見られる。 おそらく、この時期には弟子の支配権をめぐる検校間の争いが頻発していたのであろう。 幕府からも座の綱紀粛正が求められ、奥田惣検校の更迭、小池検校らによる『当道式目』(古式目・寛永式目)の制定へとつながっていく。

 この日瞽者惣録をよび、菊岡、安田、河内の三検校非義を申て上裁を請ば、共に重科に処せらるべしといへども、御法会により一等を減じて不座せしめらる。その余十老の徒も罪せらるべしといへども、かくては瞽者の座滅亡するにより、しばらくゆるさるれば、今より後古法を守り、心いるべき旨命ぜらる。

  ―― 『大猷院殿御実紀』 寛永11年(1634)2月


《2013年9月》

検校列伝

当道