『醒睡笑』に登場する座頭


 安楽庵策伝(1554〜1642)が著した笑話集。 座頭の登場する話も散見されるが、その中で主なものを抄出する。


 まず、平家を語る座頭。下手であれば聴衆にも相手にされないが、策伝の時代、すでに平家は古めかしく、相応の知識のない人には理解困難なものとなっていた。

 最初に挙げた話に出てくる座頭の名「金城」には「きんいち」と仮名が付されている。 別の話では「作城」を「さくいち」と読ませている例がある(岩波文庫 (下) p76)。 「いち」に「城」の字をあてることもあったらしい。

 和泉の堺、市の町に、金城(きんいち)とて平家の下手あり。 正月初参会に出でて、「祝儀を申さんや」と伺ふ。 琵琶を調べけるに、座敷静まりたれば、「わが平家を真にかまへ、皆人よくきかるるぞ」と思ひ、長々と語る。 役人出でて、「もはや平家をお止めあれ。人は平家の始まると、そのまま立って一人もないに」と。

  ―― 『醒睡笑』巻之六 推はちがうた  岩波文庫(下) p68

 一向不文字なる者、平家を聞かんと行く。 「何として、あの風情の耳に入ることあらんや」と、まことしからざりしが、彼聞きて帰りぬるまま、「何と平家を聞かれたか」。 「されば、木平家は一段おもしろかりつるに、時々座頭のをめくで、くたびれた」と。

  ―― 『醒睡笑』巻之八 平家  岩波文庫(下) p220


 宗長の連歌の座敷に、初心と見えし座頭一人ありつるが、麁忽(そこつ)に「一句申さんや」と伺ひければ、宗長、「連歌過ぎての事にせられよ」とありし。

  ―― 『醒睡笑』巻之八 かすり  岩波文庫(下) p231

 「初心と見えし座頭」とあるが、当道の階位の初心ではなく、連歌の初心者ということであろう。 座頭が「一句」と言ったので、宗長は平曲の一句と誤解したふりをしてかわした。

 珍客は若衆なりし。座上に置き参らせて、相伴など歴々たる座敷なかばに、初心の座頭来れる。 末座の人、彼に問ふ。 「そちは占方(うらかた)の上手と聞く。 この座上に、いかなる人のおはすぞや」。 「されば児か若衆なるべし」。 「さても奇特を占うたるが、ちとは目が見ゆるものかな」と不審はれず、「何の調子を伺ひ言うたるぞ」。 「されば六曜の占いの外は存ぜぬなり。そのうちに草中蛍が出てあり」。 知んぬ、ホタルは尻に光ある間、さて申したるなめり。

  ―― 『醒睡笑』巻之八 頓作  岩波文庫(下) p182

 こちらも「初心の座頭」である。上の話と同じく、当道の階位とは思われないが、不明。
 この座頭は占いが上手だという。まるで見えているかのように物事を言い当てる能力は、後の時代の『西鶴諸国ばなし』に登場する盲人に通ずるものがある。 古くから、盲人には見えないものを見通す「占い」の力があると信じられ、中世から近世の初めころまでは、「占い」の能力をもって遇された盲人が少なからずいたことは想像に難くない。 杉山和一以後の盲人たちが、病気を見立て、治療する存在として、社会に受け入れられ、その役割を果たし得たのは、この「占い」の伝統と無関係ではあるまい。


 高名な検校が実名で登場している話もある。

 卜都検校、叡山にて大衆集会のみぎり、平家ありし。 「山法師をりのべ衣うすくして、恥をばえこそかくさざりけれ」とあるを、「いかに心の涼しかるらん」となほして語りけり。 その時大衆あつと感じ、平家過ぎて同音にほめつるを、大いに慢じ山を下りたるが、思ひの外俄かに日の暮れぬるまま、灯のあるをたより、宿を借りぬ。 亭出でて挨拶し、すなはち一句所望せしを、あなどりて、あそこここ落し語りける時、亭主、
    うぐひすの声ばかりして一の谷平家は落ちて聞かれざりけり
この歌を吟ずる間に、もとの如く天地あきらけし。 これはこの検校の自慢の心より、天狗の所為なりとぞ。

  ―― 『醒睡笑』巻之一 ふはとのる  岩波文庫(上) p66

 卜都検校は、竹村卜一(牧一)。 文正元年(1466)から文明11年(1479)まで、惣検校を務めた。 『醒睡笑』の著者よりも100年あまり前の人物であるが、このような逸話が策伝の時代にも伝わっていたのであろう。
 話の筋は、卜都検校が天狗に慢心をとがめられたというもので、一種の怪異譚であって笑い話ではない。

 誕一検校、ある座敷物語のついで、「癪にはとかく身をつかふよし」と聞き、「目のよき茶臼を癪の薬に挽かばや」と望めるを、七尾検校受記一居合わせて、
    検校の目のよき茶臼求むるは手引きにせんと思ふなりけり

  ―― 『醒睡笑』巻之八 頓作  岩波文庫(下) p205

 高山誕一(丹一)と七尾受記一のエピソード。 誕一が望んだ「目のよき(=目の細かい)」茶臼を「目のよき」手引きにかけて、受記一がからかったもの。
 岩波文庫本の注は、七尾受記一を奥田受久一と混同しているが、誤り。 七尾受記一は今井序一の坊主(師匠)で、高山誕一とは同時代の人物と考えられる。 『醒睡笑』の著者・安楽庵策伝とも同時代であるから、高山誕一(丹一)と七尾受記一は、策伝も直接知っている名であったに違いない。

 盲人の「目」を「茶臼の目」と掛けた話は別のところにも見出される。 文中には座頭とあるが、大名の扶持を受けているというから、検校か勾当であろう。

 大名の扶持を受くる座頭あり、茶を挽かせられしが、飲みて見給へばあらし。 おほきに機嫌そこねしに、
    粗くともあが科のをと思すなよ茶臼に目なし碾人(ひきて)にもなし
このことわりにて事すみぬ。

  ―― 『醒睡笑』巻之五 きゃしゃ心  岩波文庫(上) p345
       ※「きゃしゃ」は、女偏に花

 次の山中検校も、安楽庵策伝と同時代である。

 山中検校死去のみぎり、年四十八といふを聞きて、
        雄長老
    南無阿弥陀四十八までながらへて今ぞおもむく死出の山中

  ―― 『醒睡笑』巻之八 頓作  岩波文庫(下) p207

 山中検校は、休一(久一)という。松本鏡一の弟子にあたる。 「南無阿弥陀……」を詠んだ雄長老は『醒睡笑』中に頻出する建仁寺の永雄和尚(1535〜1602)。 史実の一端を伝えているとすれば、山中休一(久一)は1602年以前に歿したことになる。


 次の話は、山岡道阿弥なる人物が座頭をだましたというのであるから、後味がよくない感じは否めない。 当道の側にしてみれば、徹底した階級社会であった当道の特性をうまく利用されてしまったのである。

 山岡道阿弥、坂本より京に上る。 乗物八人にて、侍あまた連れ、いかめしく見えつるが、大津にて、むかうより座頭一人来るにひしと行きあたり、棒のさき座頭の頭にあたり、打破り血流るる。 「心得たり」といふまま、乗物にしかと取付き、「この内にゐるは、いかなるやつぞ。是非出でよ。はたさん」とののしるに、返事もなくややありて、乗り物の内より、「座頭、座頭、頬は痛むか」と問ふに、腹立いやまし、散々悪口におよぶ。 その時、「われは飛田検校なり。中間過ちしたり。是非なし」といふに、座頭、すなはち声をひきくし、「少しもくるしからず。存ぜずして狼藉申したる」と詫びけるに、「そちの学問所はいづれぞ。それを頼みてわびん」とあれば、「ひらに御免あれ」と却りて手を擦りけるとなん。

  ―― 『醒睡笑』巻之八 頓作  岩波文庫(下) p209

 山岡道阿弥が偽って名を騙った飛田検校は、その読み方がヒタ(ヒダ)かトビタかを含めて、まったく不詳であるが、権威のある有力な検校であったに違いない。 これをトビタと読むとすれば、この時代の検校としては、冨田うん一の可能性が考えられる。先に出た七尾受記一の坊主である。
 「中間過ち」という語があったことや、学問所検校の存在とその権威が、山岡道阿弥のような(あるいは安楽庵策伝のような)座外の人々にもよく知られていたことを示す資料であると言えよう。


近世文芸に描かれた当道

当道