妙門派。坊主・山川城管。寛永14年(1637)5月9日権成。貞享4年(1687)7月18日歿。
墓所・日蓮宗勝光寺(京都市下京区西寺町)。
『本朝盲人伝』の岩船城泉
岩船某 岩船某は寛永中の人。夙に寵眷を堀丹後守直寄に受く。直寄 嘗て金若干を与へ検校たらしめ、且 岩船のあたりにひろふ貝はあれど、 はるめなきこそ袖はぬれぬる。 の和歌を贈る。某其の知遇に感ぜり。 ―― 『本朝盲人伝』,p.221 |
岩船城泉は、『三代関』に「堀丹後守元家来」という記述があるから、出自は武士であったらしい。 子孫が高橋姓を称しているところからすると、本姓は高橋だったのであろう。 4代将軍徳川家綱に重用され、その前で平曲を弾ずること多数に及んだ。
『徳川実紀』の岩船城泉
『徳川実紀』における岩船城泉の初出は、将軍家光の時代。
針医山川検校貞久の弟子岩船検校城泉 大納言殿御方にめし出さる。
―― 『大猷院殿御実紀』 正保2年(1645)年8月1日
* 大納言 = のちに将軍となる徳川家綱。この時5歳。 |
家綱が将軍となって以後は、『厳有院殿御実紀』にたびたび登場する。
岩船検校城泉 平家を弾ず。 ―― 『厳有院殿御実紀』 慶安4年(1651)5月21日 |
夜中 岩船検校城泉に平家琵琶を弾ぜしめ聞召れ、時服三 纏頭せらる。 ―― 同 明暦3年(1657)12月3日 |
また岩船検校城泉平家琵琶聞召る。 ―― 同 万治元年(1658)2月10日 |
こたびの慶事により瞽師岩船検校城泉に銀十枚下され 瞽者に青フ五百貫文。盲女に三百貫文施行せらる。
―― 同 万治2年(1659)9月14日
* こたびの慶事 = 2年前の明暦の大火で焼失した江戸城本丸の竣工を指す。 * 青フ = せいふ。銅銭のこと。「ふ」は虫へんに夫。 |
また岩船検校城泉平家琵琶聞召れ 時服纏頭せらる。 ―― 同 同年9月17日 |
夜中 岩船検校城泉琵琶聞召る。厳寒なればとて繻珍白の服を纏頭せらる。 ―― 同 同年12月5日 |
平家琵琶しばしば聞召によて 岩船検校城泉に時服下さる。 ―― 同 同年12月6日 |
夜中 平家琵琶聞召る。こと更御感の御旨にて 岩船検校城泉に帷子三かづけらる。 ―― 同 万治3年(1660)7月6日 |
夜中 平家琵琶聞召れ 岩船検校城泉に時服を給ふ。 ―― 同 同年11月16日 |
この日同朋に百俵づつ 岩船検校城泉は百五十俵加へたまふ。 ―― 同 同年12月朔日 |
黒木書院にて岩船検校 平家を奏す。 ―― 同 寛文元年(1661)9月22日 |
けふ 平家琵琶御聴聞あり。岩舟検校城泉 時服三かづけらる。 ―― 同 寛文3年(1663)年8月24日 |
岩船城泉の大出世のおかげで、城泉の子もお目見えを許されることになる。
岩船検校城泉の子 高橋左太郎正元 初見の礼をとる。 ―― 『厳有院殿御実紀』 寛文4年(1664)閏5月15日 |