山川城管(じょうかん)


 妙門派。坊主・小倉城ちん。寛永20年(1643)歿。

 鍼術。徳川家光に鍼医として仕える。
 「城官」とも。

 伝記等の記述によれば中途失明者であるらしく、したがって、検校登官はおろか、当道加入も江戸開府以後のことである可能性もある。


 『本朝盲人伝』の山川城管

    山川城官
 城官 姓は山川氏。其の名字を逸す。武蔵国豊島郡平塚の人。夙に神仏を信ず。中歳に及びて明を失ひ、江都に至りて業を成さんと欲す。 里に古祠あり。赤塚明神と云ふ。城官 之に祈誓す。後 瞽官を得て検校に進み、名に城の字を用ふ。村人 因て城官と称す。其の名 大いに顕る。
初め 偶々其の祠の荒廃せるを見て、之を修補して、報賽の意を表せんと欲す。大猷公 嘗て王子に猟し、将に此の村を過ぎんとす。城官 跪いて書を上らんと欲す。 已にして公 病あり。城官 之を憂ひ、粒を断つこと七日。其の癒えんことを祈る。已にして公の病 癒え、猟して此の村を過ぐ。村吏 告ぐるに其の事を以てす。 公 召して城官を見て、特に社領五十石を賜ひ、又城官に賜ふに二百石を以てす。
里に古刹あり。安楽寺と云ふ、城官 嘗て之に居る。公の過ぐるに及び、特に命じて寺号を改め、平塚山城官寺と云はしむ。其の事は、実に寛永年中に在りと云ふ。

    ――『本朝盲人伝』,p.27
 * 大猷公 = 徳川家光

 『徳川実紀』の山川城管

山川検校城管、今年積塔の頭役にあたるといへども、家計貧乏にしてととのひがたき由聞召、金二百両賜ふ。
    ―― 『大猷院殿御実紀』 寛永11年(1634)4月12日

この日平塚明神社領五十石、山川検校城管に悉邑百五十石賜ふ、…御平癒の後城管私財をもて社田を寄附し、別当の寺院を建立し城管寺と名付たり。
    ―― 『大猷院殿御実紀』 寛永17年(1640)9月23日


《2011年6月》

山川城管 2

検校列伝

当道