板花喜津一(きついち)


 慶安4年(1651)ごろ生まれ。
 師堂派。坊主・古沢(吉沢?)こう一。貞享4年(1687)正月15日権成。

 鍼術杉山流。「板鼻」とも。
 「姥捨山に照る月を見で」の、いわゆる板花検校説話で名高い。ただし、この歌の作者を板津検校とする説もある。


『本朝盲人伝』の板花喜津一

    板鼻某
 板鼻某 何所の人なるを知らず。宝永年間の人なり。幼にして眼を患ひ、終に盲す。稍長じて慧解あり。一聞忘れず。尤も和歌を能くす。
既にして寵を某侯に獲たり。候事ありて信州を過ぐ。某 之に従うて姥捨山下に至る。時に月色皎潔なり。 候 其の奇景を愛し、顧みて某に謂つて曰く、汝も亦好懐ありやと。某 嘗て
      我が心慰めかねつ更科や、姥捨山に照る月を見て。
の古歌を記憶す。乃ち其の末句の一字を改め、濁音となして献じ、以て両目色を弁ぜざるの感を述ぶ。 侯 大いにその精敏を賞し、寵遇益々厚し。後 官検校に至りて歿すと云ふ。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.47
 * 其の末句の一字を改め、濁音となして = 「見て」を「見で」と改めた。

 このエピソードによって、板花検校は風流心とユーモアを持ち合わせた人物であるかのように語られるが、本来は杉山流の鍼術家であり、幕府の奥医師の待遇を得ている。

『徳川実紀』の板花喜津一

 板花検校喜津都初見し奉る。

  ―― 『文昭院殿御実紀』 宝永6年(1709)10月15日
 また島浦検校益一三百俵、板花検校喜津一月俸二十口下され、ともに奥医並となる。

  ―― 同 同年11月朔日


《2011年7月》

検校列伝

当道