板津不守一(ふしゅいち)


 加賀国の生まれ。
 師堂派。坊主・中尾た一。寛永21年(1644)8月29日、板津そん一として権成。延宝7年(1679)歿。


『本朝盲人伝』の板津不守一

    板津不守一
 板津不守一其の先は、加賀国能美郡板津郷に出づ。因て姓となす。父を了甫と曰ふ。前田瑞龍公に仕へ、二百石を食む。了甫三子あり。不守一は其の第三子なり。 夙に盲し、検校となり、光高卿に仕へ、十人口を食む。 不守一儒学を嗜み、旁ら和歌と連歌を能くす。小松能順に連歌を授け、常に之と唱和す。
不守一嘗て家老富山右衛門尉と識る。右衛門尉東都より帰り、病んで北越山下の逆旅に歿す。 後四十年、不守一将に東都に赴かんとし、偶々其の地を過ぎ、逆旅に宿す。其の夜夢に右衛門尉に邂逅し、晤言之を久しうす。 翌旦主人に問ふに其の事を以てす。対へて曰く、幼時先考の話を聞くに、曰く、富山氏の将に歿せんとするや、先考扶持の労を執れり。 已に簀を易ふるの後、其の令嗣縫殿氏も亦数々駕を抂げらると。不守一之を聞いて悄然語なし。漣然として涙下り、終に桑門に帰す。句あり。曰く、
  法の水清める心の楽しみや、 まづ先立ちて夢に見ゆらん。
と。蓋し追弔の意を表するなり。
不守一 延宝七年を以て歿す。戸水氏 其の後を承くと云ふ。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.33
 * 前田瑞龍公 = 前田利長(初代加賀藩主)
 * 光高卿 = 前田光高(3代加賀藩主)


「姨捨山に照る月を見で」

 「姨捨山に照る月を見で」は、一般には板花検校の逸話とされるが、この歌の作者を板津検校であるとする説もある。

 この逸話とは、板花検校が歌枕として知られた信州の姨捨山の下を通った際、「我が心 慰めかねつ 更科や 姥捨山に 照る月を見て」の古歌を末尾の一字だけ変えて「我が心 慰めかねつ 更科や 姥捨山に 照る月を見で」と詠んだというもの。

 加賀の生まれで、藩主に仕えたという板津不守一ならば、国元と江戸の間を往来したこともあったに違いない。 加賀から江戸に向かう際には必ず姨捨山の近くを通るのであるから、このエピソードが本来は板津検校のものであった可能性は否定できない。

 後年の板津不守一は京都に住み、鳳林承章の『隔冥記』にもその名が現われている。 明暦から寛文年間にかけての約10年間、当道は久我家との抗争を繰り広げた。 形勢は当道に不利に傾き、京都在住の検校たちは金閣寺住持であった鳳林承章のもとをたびたび訪れて仲裁を依頼したのである。

 今井検校・板津検校両人同道して来り、相対すなり。
  ―― 『隔冥記』 寛文4年(1664)6月26日

 午時 今井検校・影山検校・板津検校三人来るなり。
  ―― 同 寛文6年(1666)5月15日
 * 今井検校 = 今井序一
 * 影山検校 = 蔭山ちん一


《2011年7月》

検校列伝

当道