茨木果一(かいち)


 妙観派。坊主・雲林院ほん一。承応3年(1654)正月元日権成。


 『本朝盲人伝』には茨木果一の項はないが、高山丹一の後半部に関連した記述がある。

    高山丹一
 (前半部略)

其の弟子茨木検校 名は果一、亦妙手たり。初め丹一蔵する所の琵琶の面に、法眼狩野元信の画瀑布の図あり。太白滝と号す。 果一も亦琵琶を得、その響きの清亮なるを以て自然と号し、珍重措かず。 大和守久世広之、法印狩野探幽に命じて白涛淘湧の状を画がかしめ、名を鳴門と改め、弘文院学士林叟 之が記を作ると云ふ。

    ――『本朝盲人伝』,p.23

『徳川実紀』の茨木果一

 4代将軍徳川家綱は平曲を愛好した。『厳有院殿御実紀』には、茨木果一が頻繁に登場する。

 茨木果一は『厳有院殿御実紀』には寛文10年(1670)に初めて現れ、半年足らずの間に家綱による平家琵琶の聴聞が5回記録されている。

 本多内記政勝が臣 茨木検校めされ、平家琵琶御聴聞あり。

    ―― 『厳有院殿御実紀』 寛文10年(1670)7月27日
 * 本多内記政勝 = 1610〜1671。大和郡山藩主。
 茨木検校琵琶聞召る。

    ―― 同 同年8月2日
 茨木検校平家琵琶聞召る。ことはてて銀十枚、時服二たまふ。

    ―― 同 同年8月10日
 薄暮 茨木検校琵琶聞召る。

    ―― 同 同年9月8日
 けふ 茨木検校琵琶聞召る。

    ―― 同 同年11月12日

 その後の4年間は果一の平家琵琶の記録がないが、延宝3年(1675)から4年(1676)にかけて、再びかなりの頻度で登場してくる。 最後の記述には「帰洛」とある。京都へ帰ったのである。 おそらく、寛文10年ごろと延宝3〜4年の2回の時期、果一は江戸に滞在していて、その期間、家綱が平曲の名手として知られた果一を重用したのであろう。 

 この夜 茨木検校琵琶聞召る。

    ――『厳有院殿御実記』 延宝3年12月17日
 茨木検校琵琶聞召。殊更御感のよしにて、時服かづけたまふ。

    ―― 同 延宝4年正月29日
 この夜 茨木検校平家琵琶聞しめさる。

    ―― 同 同年2月23日
 けふ 茨木検校平家琵琶聞召る。

    ―― 同 同年4月26日
 茨木検校帰洛のいとまたまひ、こたびはこと更に召せされしかば、銀廿枚、時服一襲たまふ。

    ―― 同 同年4月29日


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当道