平塚神社
平塚神社境内の説明板にある略縁起には、
「徳川の時代に、平塚郷の無官の盲者であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、 将軍徳川家光の近習となり立身出世を果たした。 その後、家光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。 将軍の病気はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。 家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。」 と記されている。城官寺
城官寺本堂右の墓地に山川城管一族の墓がある。山川城管自身の墓はなく、子孫の墓が並んでいる。 右手前の「当山開基 山川検校城官一族墓」という石碑の側面・背面には城官寺の寺伝が記されている。
中央の最も大きな地蔵菩薩像は城管が寄進したもので、寛永15年(1638)の年号が刻まれている。
「施主 山川検校城官 玉法院殿心誉高岸春郭上座 寛永十五戊寅六月二十四日 欽言」とある。