都名不詳。寛永19年(1642)9月24日歿。
文禄年間に琉球から三絃を将来(異説もあり)。最古の三味線伴奏の組歌を作曲(弟子の虎沢検校説も)。
『駿国雑志』巻之七によれば、都名は儀一とされる。
北九州市に墓石と伝えられるものが現存している。 かつては北九州市小倉南区石田の綿津見神社裏の丘の中腹にあったとのことであるが、現在は近くの勅命山永楽寺の横に移転。 墓石の法名は普照院畳茂道遊居士。歿年月日は寛永19年9月14日。 (「地方史ふくおか」第157号) http://www7a.biglobe.ne.jp/~chihosi-fukuoka/chifu1572no2.pdf
『糸竹初心集』の石村検校
文禄のころほひ、石村検校といふ琵琶法師、琉球の島にわたりけるに、彼の島に小弓といひて、糸三筋にてならすものあり。 小さき弓に馬の尾を絃にかけて弾くなれば、小弓とはいふとぞ。 石村 是を探りみるに、琵琶をやつしたる物なり。 糸のしらべやうも、一・二は琵琶の如く、三の糸は琵琶の三よりも二調子ほど高くあはせたるものなりと思へり。 所の者のいひけるは、此の島には真蛇の多き所なるが、ラヘイカといふもの有りて、此のまむしを食物とす。 さればラヘイカの鳴き声 小弓の音に少しもちがはざる故、真蛇を退けむが為に専ら引くなり。 琵琶法師も爰に逗留の間はひき給へといふ。 其の後、石村 京都にかへりて、おなじく琵琶をやつし、此の三味線を作り出せリ。 琉球の島より得て来るといふ心にて、琉球組といふことを作り置けリ。 弟子虎沢検校に残らず伝へしかば、虎沢また組破手といふことを作り出す。 虎沢より山井検校に伝授して世に広まる。糸の合わせやうは、是も一・二は琵琶の如く、三の糸は琵琶の四の糸の調子なり。 ―― 『糸竹初心集』 |
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