田村主殿之一(とものいち)


 戸島方。坊主・福沢国之一。文化7年(1810)9月22日権成。弘化4年(1847)、職惣検校。
嘉永3年(1850)4月11日歿。法名・松風院殿前総検校契楽孝房大居士。

 平曲。

 和歌にも長じていたといわれ、『本朝盲人伝』に、「湖上花に曰く」として、「さくらさく ひらの高ねの 春風に、花の香よする 志賀のうら波。」の一首が紹介されている。

 滝沢馬琴の子の妻で、馬琴の失明後に作品の口述筆記を行った路女の日記の嘉永3年(1850)4月の条に以下の記述がある。

 廿四日丙戌 晴
 一四時頃、宮下荒太郎殿来る。右は叔父忌明けに付き、今日より出勤候よし也。右荒太郎殿 叔父は田村検校にて、自ら両親に厚恩受けし者也。且つ、琴の師匠に候へば、今更愁傷致され候に付き、記し置く。 右田村は京師へ登り一番に升進致され、両三年以前江戸へ参られ、隠居致され、金沢町に住居致され、当月十三日死去致され候由也。歳七十二才。今日、荒太郎殿の話也

    ―― 『路女日記』 嘉永3年4月

 この日記によれば、歿したのは4月13日とされる。また、「歳七十二才」の記述から、生年は安永9年(1778)と推定される。 隠居後に住したと記される「金沢町」は、現在の東京都千代田区外神田三丁目。


《2016年1月》

検校列伝

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