吉村城矩心(じょうくしん)


 妙門派。坊主・高村城おん。寛保元年(1741)9月29日権成。 安永9年(1780)9月25日、村林惣検校死去により72代職惣検校。天明4年(1784)閏正月18日隠居。
同5年(1785)9月21日歿。法名・覚明院殿諦誉成月矩心大徳。

吉村検校の都名

 資料により都名がまちまちであるが、これほど頻繁に改名したとは考えにくい。 (2)「城くわん」、(6)「城縦心」は、「城くしん」「城矩心」の誤記であると思われる。 (4)に見られる「城元」を名乗った時期が実際にあったかどうかは定かでない。

寛保元年(1741)=権成時
(1)『三代関』 国会図書館本吉村 城くしん
(2)『三代関』 東北大学本吉村 城くわん
(3)『表控』吉村 城銀
安永2年(1773)=八老
(4)「安永二巳年供物金出入之事」
(奥村家所蔵文書)* 注
吉村 城元
安永6年(1777)  豊村城綱の坊主として
(5)『三代関』 国会図書館本吉村 城矩心
(6)『三代関』 東北大学本吉村 城縦心
(7)『表控』吉村(都名なし)
文化7年(1810)=歿後  吉岡城岡の祖父坊主として
(8)『座下控』吉村 城矩心

 * 注
 「安永二巳年供物金出入之事」 ―― 明和6年(1769)2月に江戸の惣録役所が焼失した。 当時の江戸惣録・若村検校は京都職屋敷に再建のための財政援助を要請、明和9年(1772)1月、惣録職を辞して上京した。 しかし、職屋敷側に断られたため、安永2年(1773)2月、若村検校は職屋敷十老方を相手取って、田沼主殿頭(田沼意次)に出訴した。 訴えられた側の人物として八老・吉村検校の名が、この資料に登場する。


《2012年10月》

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