安永ゑつ一(えついち)


 師堂派。坊主・玉ノ井都一。宝暦5年(1755)正月14日権成。

 勾当時代の宝暦元年(1751)、松川勾当(のちの津山検校冨一)とともに三味線歌本『和歌の糸』を編集刊行。


『本朝盲人伝』

    安永某
 安永某は京師の盲師にて、検校たり。三絃を以て著る。
画工大雅堂なるものあり。年 尚弱冠にして、三絃を嗜む。因て居をその鄰に卜し、一日その家に至り、謂つて曰く、予三絃を嗜む。故に君と咫尺す。 今 相見るを得たり。幸に一曲を奏せよと。 某 其の意に感じ、輙(すなわ)ち三絃を弾ぜしに、會々その皮敝(やぶ)れて調を成さず。大雅之を憾みとし、更に他の三絃を弾ぜんと請ふ。 某 喜ばず。すでにして問うて曰く、吾子の業とするところは何ぞやと。大雅曰く、絵画を好むと。某 曰く、子の業は想ふに未だ妙處に達せざらんと。 大雅 竊に憤然として以為へらく、彼 已に雙盲たり。何ぞ能く絵事を解せんとて、乃ち問うて曰く、何を以て某の技の拙きを知るかと。 某 哂うて曰く、凡そ三絃を鼓するものは、弾撥を執ること 右手に在り。而して精神 左手に存ぜざれば、未だ其の妙を得る 能はざるなり。 蓋し 絵事も亦然らん。其の筆を執る 右手に在りと雖も、精神 左手に在らざれば、亦能はざるなり。 今 子 我が三絃の皮の敝るるを見て、吾が精神の在る所を知らず。是 何ぞ音律を暁れるものとなすべけんや。 子の絵事に於ける、恐らくは、独り力を右手に用ひて、神を左に留めざるならんと。
大雅 之を聞き、慙愧発憤して益々画法を究め、遂に天下に独歩す。後 常に人に謂て曰く、我の此の技を成ししは、実に某の訓戒に因れり。某は我が師なりと。

  ――『本朝盲人伝』,p.57
 * 大雅堂 = 池大雅(1723〜1776)。画家。

 池大雅を発奮させた安永は、おそらくこの安永検校ゑつ一のことであろうと推測される。


安永ゑつ一 外部リンク

  安永検校とは(コトバンク)


《2010年5月》

検校列伝

当道