小野川るい一


 妙観派。坊・秋山勾当(のちの秋山検校た一)。貞享2年(1685)正月元日権成。宝永元年(1704)歿?。


小野川検校とは誰か?

    小野川某
 小野川某は江戸銀座街に住み、検校なり。性 俳歌を好む。 時を同じうして松楽軒高井立志なるものあり。俳歌を以て著る。 某 其の門に入る。因て立吟と称し、緑耕軒と号し、益々其の奥を究む。宝永元年 病んで歿す。
著す所 餞別五百韻あり。其の富岳を詠ずるに云ふ、
    六月やここらが富士かくもくさい。
と。宝暦中 自在庵祇徳 富士拾遺を著して、この句を采ると云ふ。

  ―― 『本朝盲人伝』,p.45
 * 高井立志 = 生年不詳〜1681。俳人。松楽軒と号す。
 * 自在庵祇徳 = 1702〜1754。俳人。

 〔小野川立吟〕(1704/宝永元).江戸銀座の人.一説には白銀ともいわれている.松楽軒高井立志に俳諧を学び,緑来軒立吟と称した. 1685(貞享2)年,検校に任官.「餞別五百韻」を著したが,その中に有名な「六月やここらが富士かくもくさい」の句がある. この句は自在庵祇徳編の「富士拾遺」にも採録されている.

  ―― 『世界盲人百科事典』,p.102

 『本朝盲人伝』は、小野川立吟について「宝永元年病んで歿す」と記し、『世界盲人百科事典』もそれを踏襲するが、 立吟の歿年がほんとうに宝永元年(1704)であるか疑わしい。

 江戸銀座に住した小野川立吟は、のち京都に移住した。『餞別五百韻』は京都移住後の刊行で、版元は井筒屋庄兵衛という京都の書肆である。
 同じころ、京都には歌謡集『松の葉』にも作品が収録されている小野川検校という人物がいた。 同じ時代に同じ小野川という在名を名乗る検校が京都に二人いたとは考えられないことから、 俳人の小野川立吟と地歌三絃の小野川検校は同一人物であった可能性がある。

 また、地歌三絃の小野川検校は、正徳4年(1714)2月16日の積塔会において塔人を務めた小野川検校、 岩村田藩文書で享保5年(1720)に三老であったことが知られる小野川検校と同一人とみられる。

 『世界盲人百科事典』の小野川立吟についての「1685(貞享2)年,検校に任官」という記述は、 立吟を、『三代関』で「貞享2年正月元日権成」と記される小野川るい一に比定しているわけであるが、 享保5年当時、小野川検校が三老であったことを示す岩村田藩文書によれば、 職検校が池川検校(ぜ一 = 延宝6年7月6日権成)、二老が正木検校(い一 = 貞享2年正月元日権成)であり、 座内の順位は『三代関』とも符合する。

 これが正しければ、小野川検校は少なくとも享保5年までは存命であったことになる。

 なお、講談社の『日本人名大辞典』では、「小野川立吟」と「小野川検校」を別々の人物として立項している。


小野川るい一 外部リンク

  小野川立吟とは(コトバンク)

  小野川検校とは(コトバンク)


《2010年5月》

検校列伝

当道