明石覚一(かくいち)


 正安元年〜同3年(1299〜1301)ごろの生まれと推定される。
 応安4年(1371)6月29日歿。法名・清聚庵心月本明大徳。

 性仏 → 城正 → 城一 → 如一 → 覚一 と続く一方流中興の祖。平家琵琶の名手として名高く、『太平記』にもその名が登場する。 当道組織を確立し、初代の職惣検校となったと伝えられる。 足利氏の庶流と言われ、一説には足利尊氏の従兄弟。覚一本『平家物語』を撰述。


『世界盲人百科事典』の明石覚一

 〔明石検校覚一〕 (1300ごろ〜1371/正安年間ごろ〜応安4).関東の生まれで,足利尊氏の庶流(従弟)といわれるが,生国素性は明らかでない. 播州明石に住居したために,明石検校ともいうと伝えられている.「太平記」巻21の説話にも見えて平曲(平家琵琶)の名手である. 後醍醐天皇の勅許を得て,盲人制度当道座を結成し,初代惣検校になる. 「徒然草」の著者,兼好法師などとも相識の間で,作歌をよくした. 検校の作「夜の雨の窓をうつにも砕くれば心はもろきものにぞありける」の歌は, 佐佐木信綱著「盲人歌集」によると,後小松天皇のお耳に達して,「雨夜」という号を賜り、また,紫衣を賜ったという. 盲人の身で紫衣を着るのは,これから始まったと伝えられる.このことはしかし後小松帝の即位は1382(永徳2)年で,覚一没後11年を経ている. したがって,これは死後の賜号か,一説には後醍醐帝からの賜号とも伝えられる.

 ―― 『世界盲人百科事典』,p.99 


明石覚一 外部リンク

  明石覚一とは(コトバンク)

  明石覚一(Wikipedia)


《2010年7月》

検校列伝

当道