当道用語集


 現代仮名遣いによる五十音順。人名、書名、楽曲名などは除く。若干の地名、寺社名などは含む。


      

      や・ら・わ


 あずかり【預り】 地方在住の学問所*の代理人を務めた京都の検校*

 あまよのみこと【雨夜尊・天夜尊】 当道の始祖とされる人康親王が歿後に賜った神号。

 いちかた【一方】 平曲の流派。生仏(性仏)の孫弟子にあたる城一に城玄、如一という弟子がいて、それぞれ八坂方*、一方の祖となったといわれる。当道の流派としては、妙観・師堂・源照・戸島の4派があり、一方に属する座頭は「○一」という都名を名乗った。

 いちな【都名・一名】 座頭*の名前にあたるもの。通例、「○一」、「城○」などと称する。当道*に加入した者は、最初の官位である半打掛になると都名を名乗る。→七十三刻を参照。

 いんきょ【隠居】 職惣検校*が病気・高齢などのために座を退くこと。職惣検校の場合にのみ用いられ、それ以外の十老*検校*の場合は常不参*という。

 うちかけ【打掛】 当道*の最下位の官位。打掛の中には下から順に、半打掛、丸打掛、過銭打掛の3段階があった。→七十三刻を参照。

 うんじょう【運上】 吉凶慶弔の際に盲人に対して行われた金銀米銭の配布。中世・近世期を通じて盲人の救恤のために認められていた慣習で、広く行われた。伝承によれば、四条天皇の時代に吉事の際の11種の運上が定められたとされる。
 徳川家康が江戸幕府を開いた際に、伊豆円一の奏上によって従来の慣習である配当*・運上が追認され、幕府の施策にならって各藩でも同様の慣習が行われた。
 運上を受けることができたのは、検校*から無官の者に至るまでのすべての当道*構成員で、また瞽女*も含まれた。官金*の配当の恩恵に浴さない下級の盲人にとっては貴重な収入源となっていた。

 えどそうろく【江戸惣録】 元禄5年(1692)以来江戸に置かれていた惣検校*が享保21年(1736)2月に廃止されたあと代わって置かれ、江戸及び関八州(あるいは東日本全域か?)を管轄した。
 同年3月に初めて江戸惣録に任ぜられたのは島崎登恵一であるが、惣録の代数には3代の江戸惣検校を含めるため、島崎は第4代と数えられる。

 えんこう【遠行】 職惣検校*の死亡の婉曲的な表現。

 おおやまかた【大山方】 当道*の六派*の一。八坂方*に属する。

 おりもの【下物】 当道座内で座の構成員に分配された金銭。官位を得るために上納された官金*は、下物と称して座内で分配された。
 七十三刻*の中に、上衆引、中老引、晴という名称を持ったものがあるが、それらに昇進するために納められた官金は、それぞれ、上衆*(検校*)、中老*(勾当*)、座頭*に分配された。

 かかえざとう【抱座頭】 大名などに抱えられて扶持を受けていた者。

 がくもんじょ【学問所】 検校*のうち、一門の最古参で、弟子の官位昇進の取り次ぎの権限を有していた者。
 ある者が検校に昇進しても、自分の師匠(坊主*)が検校として健在であるうちは、坊主が学問所であるから、自分は学問所になることはできない。坊主が死亡あるいは引退すると、学問所の地位を継承する。ひとりの坊主から複数の弟子が検校に昇進した場合は、坊主の死亡または引退後はそれぞれが独立して新たな学問所となる。

 かんきん【官金】 (1)当道*において昇進の際に必要とされる金銭。階級ごとに金額が定められていて、最上位の検校*(検校の晴)になるまでには合計719両を要した。→七十三刻を参照。

 (2)座頭貸しにおいて貸し付けた金銭のことも官金と称した。

 きざ【帰座】 不座*となった者が座に復帰すること。

 きせき【帰席】 不座*となった者が元の席次に復帰すること。

 げんざ【現座】 座落ち*の状態にない者。

 けんぎょう【検校】 当道*の階級の一。四官の中の最上位。別当(惣別当任じ)に昇進した者は日をおかずに残りの官金を納めて検校に昇進するのが普通であったので、別当を含めて検校と称した。検校(別当を含む)になると、紫衣を着用し、両撞木杖を携行した。→七十三刻を参照。
 当道の組織を確立したといわれる明石覚一は『師守記』にも登場しているが、最初に名が現れる暦応3年(1338)から貞和3年(1347)までは肩書なしで記され、貞治2年(1363)になって「覚一検校」と検校であることが明記される。したがって、明石覚一の時代には検校という官位が存在していたことは確かである。ただし、覚一が初代の惣検校になったという伝承については同時代の資料からは確認できない。

 げんしょうは【源照派】 当道*の六派*の一。一方*に属する。

 こうとう【勾当】 当道*の階級の一。四官*の中の第3位。一度から八度までの8階に区分され、さらに細かくは35刻があった。
 勾当8階の各々には以下の別称があった。一度 過銭勾当 / 二度 送物勾当 / 三度 掛司(勾当) / 四度 立寄(勾当) / 五度 召物(勾当) / 六度 初の大座 / 七度 後の大座 / 八度 権勾当
 勾当の名称は、古くは律令制下の職名として現れるが、のちに天台宗・真言宗などで寺の事務を執る僧を勾当と呼ぶようになり、これが盲官の名称に転用されたと考えられる。
 永仁5年(1297)成立の『普通唱導集』に「琵琶法師 伏惟々々々々勾当」とあるのが、琵琶法師に勾当の官位が付記された最初の記録である。

 こうぶん【告文】 惣検校*の名で発行された座内の官位の昇進を正式に認める任官証明書。

 ごぜ【瞽女】 盲人女性のうち、瞽女座に加入して活動したもの。

 ごんなり【権成】 検校*に任官すること。より正確には権別当以上の官位に達することであるが、別当となった者は日をおかずに検校に昇進したので、事実上、検校になることと同義である。

 ざいみょう【在名】 (1)座頭*の名字にあたるもの。四度の座頭以上になると、都名*に加えて在名を名乗ることが許される。
 在名は本来は生国や居住地の地名をつけるのが通例で、「八坂殿」(城玄)、「坂東殿」(如一)、「明石殿」(覚一)などと呼ばれた。近世以降は、士分出身の者にあっては本姓をそのまま在名とすることもあった。杉山和一の「杉山」は本姓を在名とした例である。また、師匠の在名の一字を継承する例も多く見られた。代表的なものでは、杉山和一の弟子の「杉岡」、「杉枝」、「松山」など、山田斗養一の弟子の「山木」、「山登」、「山勢」などがある。近世後期には師の在名をそのまま襲名することもあり、大坂では中筋の「津山」、「中川」などが、江戸では前述の山田流各派の家元が、代々同じ在名を名乗った。

 (2)在名を名乗ることのできる四度の座頭の別称。→七十三刻を参照。

 ざいり【座入】 当道*に加入した盲人が衆分*の地位に昇進すること。衆分になるためには計12両の官金が必要であった。打掛を経ずに、いきなり衆分になることを粒入り*という。

 ざおち【座落】 官位の昇進ができなかった者に対する一定の権利の剥奪。座の構成員には官金を納めて昇進することが奨励されていたが、5年を経ても昇進しない者は座落ちとされた。座落ちは配当の受け取りなどに関して制限が加えられたもので、除名や資格停止ではない。

 ざとう【座頭】 (1)当道*の階級である四官の一。座頭の中は下から順に、一度、二度、三度、四度の四つに区分され、さらに細かくは15刻目があった。一度から三度までの下位の座頭と、最上位の四度との間には待遇にかなりの差があった。→七十三刻を参照。

 (2)おもに座外から、当道に所属する盲人を総称していう。

 ざなおり【座直り】 座落ち*の状態であった者が官位昇進によって現座*に復帰すること。

 しかん【四官】 当道*の階級を大きく四つに分けて四官という。上から順に、検校*、別当*、勾当*、座頭*。ただし、当道内には座頭の下に、四官に属さない打掛*という階級もあった。→七十三刻を参照。

 しきけんぎょう【職検校】 中世以後、惣検校*の地位にある者を職といい、職検校は惣検校*と同義であった。しかし、元禄5年(1692)に将軍徳川綱吉によって杉山和一が惣検校に任命されると、惣検校が職検校と分離され、当時の職惣検校であった久永弾一は職役のみとなった。惣検校が将軍の任命で江戸在住であったのに対し、職検校は従来どおり座順にしたがって継承され、京都の職屋敷で執務にあたった。
 享保21年(1736)に江戸の惣検校が廃止されて、再び京都の職検校が惣検校を兼ねることとなった。44年間の惣・職分離の時代を通して、江戸の惣検校は3代を数えるのみであったが、職検校の交代は頻繁に行われた。

 しきじ【職事】 職屋敷*において事務をつかさどった晴眼者。

 しきそうけんぎょう【職惣検校】 職検校であり、かつ惣検校である者。元禄5年(1692)から元文元年(1736)までの期間を除いて職検校と惣検校は同一人であるので、職検校・惣検校は必然的に職惣検校である。

 しきやしき【職屋敷】 職惣検校*が住し、十老が執務にあたった、当道*の最高機関としての機能を有していた役所。近世初期までは京都・五条坊門通(現在の仏光寺通)東洞院の西にあり、のちに五条坊門通東洞院の東側(現在の京都市立洛央小学校の地)に移った。

 しちじゅうさんきざみ【七十三刻】 当道*の階級は全部で73の刻目に細分化されるといわれる。そのうち、名称を持っている階級は67で、残る6階級が何であるかは諸説ある。

 しどうは【師堂派】 当道*の六派*の一。一方*に属する。疋田仙一(法名・師堂心超大徳)を派祖とする。

 しゃくとうえ【積塔会】 当道の祖とされる人康親王没後の仁和2年2月17日に、盲人に検校*・勾当*の2官が宣下されたという伝承に基づき、その前日の2月16日夜に行われた人康親王の追善供養の法会。涼塔会*とともに二季の塔*といわれ、当道*の最も重要な年中行事のひとつであった。
 積塔会は、京都の風物詩のひとつとして知られ、多くの見物人が集まったという。俳句でも春の季語として扱われている。

 しゅうぶん【衆分】 当道の階位。一度から三度までの座頭*の通称。あるいは、特に、座頭の最初の位である才敷衆分を指す。→七十三刻を参照。

 じゅうろう【十老】 検校*のうち、座順の上位の10人をいう。座順の最上位が職検校(一老)で、以下、二老、三老 …… と続き、10番目の者までの総称。ただし「職十老」という場合は、職検校及び他の十老の者ということであるから、二老から十老までの9人を指しているとも考えられる。
 十老となった検校は住国から上京して、京都の職屋敷*で執務した。

 じゅうろくかい【十六階】 当道*の階級である四官*をさらに細分化すると、検校*に1、別当*に3、勾当*に8、座頭*に4の階があり、合計すると16階になる。→七十三刻を参照。

 じょうしゅう【上衆】 検校*の別称。

 じょうふさん【常不参】 十老*入りの検校*の引退。職惣検校*の場合は隠居*という。

 しょしん【初心】 当道に入門してから一度も階級の昇進を経験していない無官の者。

 すずみ【涼】 涼塔会*に同じ。

 せいじゅあん【清聚庵】 明石覚一の位牌所。当道座の最高機関である職屋敷*が置かれた。

 せきな【せき名】 名乗ることを禁じられた名。元は当道式目の規定に「名をせく」という動詞の形で現れる語である。「せく」の語義は未詳であるが、内容から「襲名を遠慮する」といった意味であると受け取れる。
 都名*(いちな)については3代にわたって「名をせく」という規定があり、祖父坊主*及び坊主*と同じ都名を名乗ることは禁じられていた。在名*については襲名を禁止する規定はないが、ある者がすでに名乗っている在名は別の者が同時期にそれを名乗ることはできなかった。

 そうけんぎょう【惣検校・総検校】 検校*の中の最長老・最上位の者をいう。明石覚一が当道の組織を確立して初代の惣検校になったともいわれるが、覚一が惣検校であったという記録はなく、『教言卿記』応永14年(1407)に「惣検校慶一」とあるのが文献上における惣検校の初見である。慶一は在名を塩小路といい、明石覚一の孫弟子にあたる。
 惣検校の地位にあった者は職とも呼ばれ、惣検校と職検校は同義であった。しかし、元禄5年(1692)に将軍徳川綱吉によって杉山和一が検校の順位27番目から抜擢されて惣検校に任命されると、惣検校は職検校と分離されて別々のものとなった。惣検校は江戸で、職検校は京都で、それぞれ執務し、両者の関係では惣検校が上位とされた。江戸の惣検校は、杉山和一のあと、三島安一、島浦益一と3代、44年間存続したが、享保21年(1736)2月をもって廃止され、3月から新たに江戸惣録が置かれた。

 そうはれ【惣晴】 検校*の晴(検校の最上位)までの官金*をすべて納めた者をいう。→七十三刻を参照。

 そふぼうしゅ【祖父坊主】 師匠(坊主*)の師匠。

 たいこざとう【太鼓座頭】 遊里の客に呼ばれて、三味線を弾いて小唄・浄瑠璃などを演じた座頭*

 ちゅうろう【中老】 三度以上の勾当*の別称。

 つぶいり【粒入】 当道*に加入した盲人が、打掛*の地位を経ずにいきなり座頭*に昇進すること。初心*の者が一度の座頭に昇進するためには12両の官金が必要であった。

 でし【弟子】 師匠に入門して技芸を学ぶ者。単に弟子というと普通は取立弟子を指す。

 どうしゅく【同宿】 取立*の関係が消滅した後に成立する間接的な師弟関係。
 ある弟子Aの師匠B(学問所*師匠)が死亡すると、Aがすでに検校であればその地位を継承して学問所となることができるが、Aがまだ検校ではなかった場合は学問所となることはできないため、新たに他の検校Cの下について師弟関係を結ぶ。その関係を同宿といい、同宿の関係を結ぶことを「同宿かため(堅め)」という。弟子Aが新たな師匠Cの同宿の弟子となることを「AはCにかたまる(堅まる)」と言い表す。

 とうどう【当道】 (1)中世から近世にかけて数百年間存続した盲人の組織。本来は平曲を語ることを主要な芸とし、のちには鍼治、音曲などにも携わった。これらの技芸は師匠から弟子へと伝えられ、当道は教育機関であるとともに互助的な組織でもあり、半自治的な性格をも持っていた。
 当道の本来の語義は「わが芸道」ということで、各種の芸能集団が自らを呼びならわすのに用いられたが、中世以降は専ら平家を語る盲人の集団の呼称となった。当道座内の伝承によれば、当道の祖は9世紀の人康親王で、失明後に盲人を集めて詩歌管弦を教えたことにあるとされるが、史実とは認めがたい。14世紀半ばに明石覚一が現われ、各地に存在していた平家語りの盲人集団を統一し、組織化した。そのため、明石覚一は当道の中興開山として後世まで尊崇された。
 明治4年(1871)11月3日、太政官布告第568号によって当道座は廃止された。

 (2)当道の座の組織に所属する個々の盲人をいう。

 とうにん【塔人・当人】 積塔会*・涼塔会*において会式を主宰する検校*。各派の検校が交代であたった。
 担当すべき塔人の役を務めなかった者は不座*等の重科に処せられた。そのため、担当者が病気などで塔人を務めることができない場合には代理の検校がこの役を務めることも少なからずあった。

 としまかた【戸嶋方】 当道*の六派*の一。一方*に属する。

 とりたて【取立】 座に入門した者はいずれかの師匠の弟子となるが、そのような直接の師弟関係をいう。弟子は師匠について修業するが、技量のさらなる向上のために、取立師匠とは別の師匠につくことも認められた。

 ながしんか【永請暇】 当道構成員の死亡の婉曲的な表現。請暇(しんか)は他国へ行くことであり、永久に請暇の状態となったことを意味する。職惣検校*の場合は遠行という。

 なづけ【名付】 直接の師弟関係。取立*に同じ。

 にきのとう【二季の塔】 2月の積塔会*と6月の涼塔会*。当道*における二大行事。

 にゅうせき【入席】 十老*の席に入ること。

 はいとう【配当】 盲人の主要な収入源となっていた金銭の受領。官金*の配当(下物*)と運上*の配当の2種があった。これらのうち、下物は当道に属する者のうち在名(四度)以上の者が受けたが、運上は座頭*以下の者を含むすべての当道*構成員のほか、瞽女*も受けることができた。

 はとう【派頭】 当道*各派の中でそれぞれの最上位の者。あるいは、惣検校*の所属する派を除いた5派の中でそれぞれの最上位の者。

 ふざ【不座】 座の構成員が不祥事などにより座から除名されること。

 ふちけんぎょう【扶持検校】 大名などに抱えられて扶持を受けていた検校*

 ふちざとう【扶持座頭】  大名などに抱えられて扶持を受けていた者。大名の抱えを受けるのは高位の検校*・勾当*であるため、扶持座頭は扶持検校*とほぼ等しい。

 ふりあんま【振按摩】 按摩のうち、笛を吹きながら路上を巡って営業する者。

 べっとう【別当】 四官*の一。勾当*の上、検校*の下の階級。権別当・正別当・惣別当の3階があるが、勾当から別当への昇進の際は、官金を一括して納めて権別当・正別当を飛び越え、惣別当任じになるのが通例であった。そして、惣別当任じに昇進した者は、日をおかずに残りの官金を納めて正式な検校に昇進した。したがって、別当にとどまっている期間は短く、一般には別当という官位の存在も座外にはあまり知られなかったため、通称では別当を含めて検校と呼ばれていた。惣別当任じに昇進した時点が権成*であり、検校を名乗った。→七十三刻を参照。

 ぼうしゅ【坊主】 師匠。平曲の相伝に関わる師弟関係における師。

 みょうかんは【妙観派】 当道*の六派*の一。一方*に属する。

 みょうもんは【妙門派】 当道*の六派*の一。八坂方*に属する。

 もみざとう【揉座頭】 按摩導引によって生計を立てていた盲人。当道*は元来、平曲を表芸としていたので、しばしば軽蔑のニュアンスを込めて用いられた。

や・ら・わ

 やさかかた【八坂方】 平曲の流派。生仏(性仏)の孫弟子にあたる城一に城玄、如一という弟子がいて、それぞれ八坂方、一方*の祖となったといわれる。当道の流派としては、妙門*・大山*の2派があり、八坂方に属する座頭は、「城○」という都名を名乗った。

 りょうとうえ【涼塔会】 人康親王の母(没年不明)の忌日にあたる6月20日の前日の6月19日に行われた人康親王の母の追善供養の法会。積塔会*とともに二季の塔*といわれ、当道*の最も重要な年中行事のひとつであった。
 『教言卿記』には、応永12年(1405)の涼会に座頭検校等81人が会合した旨の記録がある。
 京都の風物詩のひとつとして知られ、積塔会同様、多くの見物人が集まったという。

 ろくは【六派】 当道*の六つの流派。妙観派*・師堂派*・源照派*・戸嶋方*(以上、一方*)、妙門派*・大山方*(以上、八坂方*)の6派をいう。


 項目は随時追加しています。誤り等があればご教示ください。


《2020年3月》

当道