検校の不座


 『当道大記録』(寛政5年)の中に、「貞享年中より不座人之事」という一項がある。当道座中の不座となった者を列記している。 内容は概ね『三代関』からの抜粋である。 検校となった者の名簿である『三代関』には、不座となった者についてはその旨の情報も記載されている。 ここでは『三代関』及びその後継記録である『表控』、『座下控』に基づいて、不座となった検校を下の表にまとめた。

 不座といっても内容はさまざまである。 最も重いのは座からの永久追放を意味する「根元切り」で、柴田城べん、山嶋ひろ一、伊藤城のふ、生嶋き一の4名が確認される。

 「根元切り」ではない不座は、一定の期間を経た後に復帰する可能性を残している。 したがって、のちに「帰座」を果たした者もいる。不座となった者が復帰するのには、概ね10年あまりの時間を要している。

 「不座」の処分が下されたのは、享保年間が特に多い。 その対象となった者の多くは正徳年間ごろに検校となった者である。

 正徳2年(1712)の検校任官者数は74名にも及んだ。史上最高の任官者数を記録したのはこの年である。 正徳6年=享保元年(1716)年の30名がそれに次ぐ。 そして、この30名のうちの8名が、のちに不座となっている。 これほどまでに検校の数が増えると、その中身も玉石混淆となるのは当然のことと言えよう。

 「今日の検校」に降格となった例も珍しくない。 「今日の検校」になるということは、処分決定の日をもって、新参の検校、つまり検校の序列の中の最下位に降格されるということである。 単なる降格であるから、追放されるわけではない。実質的には「不座、即日帰座」と考えることもできる。

 『三代関』、『表控』、『座下控』は検校の任官記録であるので、「不座」や「帰座」のような任官時以後の記録については遺漏があることも考えられる。

不座年月日検校名
(権成年)
不座の時、権成から不座の理由処分内容帰座
※備考
(不明)
天和2年?
林しん一
(万治2)
(不明)
24年目?
積塔不勤不座
数年を経て帰座
(『当道大記録』では「十年を経て」)
元禄4年2月(正月?)4日、
服山しん一として帰座
(不座から11年目?)
貞享3年12月17日小瀬しゆん一
(寛永15)
49年目結解押領、露顕の上白状京大坂江戸堺伏見大津七ケ所構の上追放
紫衣袴しゆもく杖等焼き捨て
※「七ケ所」は京以下の六及び生国(広島)
(不明)静間りん一
(寛文3)
(不明)悪人ゆえ不座
元禄6年10月19日湯浅やう一
(明暦3)
37年目
七老
服山検校と公事今日の検校に降格元禄6年10月19日、今日の検校
元禄6年12月9日杉岡つげ一
(貞享4)
7年目御城において不行跡あり不座
藤堂和泉守殿へ御預け
元禄8年10月25日服山しん一
(元禄4)
(帰座から)
5年目
段々悪事あり
京江戸大阪追放の所、江戸の寺社奉行に直訴
京江戸大阪三ケ所追放※林しん一と同一人
(不明)曾根川城ゆ
(延宝2)
(不明)塔不勤不座
(不明)柴田城べん
(元禄8)
(不明)(不明)根元切
京江戸十里四方追放
辛巳(元禄14)12月9日村上まか一
(元禄12)
3年目(不明)不座
壬年(元禄15?)9月7日山嶋ひろ一
(元禄11)
5年目?(不明)根元切不座
京都大阪十里四方追放
元禄15年9月7日岩村城とよ
(元禄13)
3年目訳ありて今日の検校に降格
元禄15年9月7日伊藤城のふ
(元禄13)
3年目(不明)根元切
京大坂江戸十里四方追放
元禄16年12月6日生嶋き一
(貞享4)
17年目(不明)根元切追放
宝永8年2月19日日向城ばん
(元禄14)
11年目訳ありて
水橋勾当の検校昇進に関わる不正
今日の検校に降格 閉門
6月19日赦免
宝永8年2月19日、今日の検校
正徳5年9月23日生岡ひさ一
(元禄16)
13年目ゆくえ知れず六派評議の上、不座
(不明)小出のう一
(元禄16)
(不明)訳ありて不座
享保3年10月21日岡田おか一
(正徳6)
3年目訳ありて不座元文2年5月25日帰座
(不座から20年目)
享保6年5月7日菊永城はる
(正徳5)
7年目訳ありて不座享保12年10月18日帰座
(不座から7年目)
享保6年5月7日大森うか一
(正徳5)
7年目訳ありて不座享保8年10月26日帰座
(不座から3年目)
享保6年5月7日浜田かつ一
(正徳6)
6年目訳ありて不座
享保6年5月7日長浜いそ一
(正徳6)
6年目訳ありて不座
享保6年6月6日岩浜かめ一
(正徳4)
8年目不行跡不座
享保6年6月6日青木ちやう一
(正徳5)
7年目(不明)不座享保16年12月29日、
木村まつ一として帰座
(不座から11年目)
享保6年6月6日福井とく一
(正徳6)
6年目訳ありて不座
享保6年6月6日豊橋はや一
(正徳6)
6年目訳ありて不座享保17年5月23日、
豊澤さだ一として帰座
(不座から12年目)
享保6年6月6日柳嶋りやく一
(正徳6)
6年目訳ありて不座
享保6年6月岩嶋じゆん一
(正徳6)
6年目訳ありて不座享保16年10月25日、
中田けん一として帰座
(不座から11年目)
(不明)冨嶋くわく一
(正徳6)
(不明)(不明)不座享保8年10月15日帰座
享保7年4月19日池川是一
(延宝7)
44年目
職検校
(不明)
不座※『三代関』に記載なし
享保7年4月19日正木い一
(貞享2)
38年目(不明)不座
享保10年9月28日久保田城てい
(元禄11)
28年目訳ありて今日の検校に降格享保10年9月28日、今日の検校
享保10年9月28日永田美城すけ
(正徳2)
14年目訳ありて今日の検校に降格享保10年9月28日、今日の検校
享保13年4月3日
藤岡ほうじゆ一
(正徳2)
17年目訳ありて不座享保14年4月8日帰座
(不座から2年目)
享保14年9月15日植山くわん一
(貞享5)
42年目
職検校
訳ありて
(『当道大記録』には「子息不行跡」)
不座※『三代関』に年月日記載なし
享保20年8月12日市川城か
(正徳2)
24年目不調法あり今日の検校に降格享保20年8月12日、今日の検校
元文元年12月23日吉谷かん一
(元禄15)
35年目
三老
手代さの一の儀、ほか7ケ条の罪不座元文4年6月29日病死
死後に帰座
元文元年12月23日里見みち一
(元禄16)
34年目
五老
手代さの一の儀、ほか5ケ条の罪末の検校に引き下げ
京江戸御構
元文4年帰座
(不座から4年目)
元文元年12月23日福嶋む一
(宝永4)
30年目
十老
手代さの一の儀、ほか5ケ条の罪常不参仰せ付けられる※『三代関』では元文元年10月23日不座
(不明)雨谷すん一
(享保18)
(不明)訳ありて座を下る
(不座処分ではない?)
元文4年9月18日帰座
宝暦2年6月15日福澄さ一
(享保17)
21年目惣録順座公事不座
今日の検校に降格
宝暦2年6月15日、今日の検校
宝暦2年6月15日藤上さこ一
(元文元)
17年目惣録順座公事に加担不座
今日の検校に降格
宝暦2年6月15日、今日の検校
宝暦11年2月23日宮崎との一
(宝暦8)
4年目金子出入りの不正不座明和3年11月14日帰座
(不座から6年目)
安永6年7月松山いよ一(小野塚春一)
(安永3)
4年目高利貸の廉不座寛政3年正月24日、
松山伊勢ノ一として帰座
(不座から14年目)
安永8年2月9日松浦弥一
(宝暦13)
17年目高利貸の廉により入牢不座寛政3年正月24日帰座
(不座から12年目)
安永8年2月9日鳥山玉一
(安永2)
7年目高利貸の廉により入牢不座寛政3年正月24日帰座
(不座から12年目)
安永8年2月9日神山秀一
(安永2)
7年目高利貸の廉により入牢不座寛政3年正月24日、
鎌田秀一として帰座
(不座から12年目)
安永8年2月9日川西しんの一
(安永2)
7年目高利貸の廉により入牢不座寛政3年正月24日帰座
(不座から12年目)
安永8年2月9日梅浦橘一
(安永3)
6年目高利貸の廉により入牢不座寛政3年正月24日帰座
(不座から12年目)
安永8年2月9日相馬城定
(安永3)
6年目高利貸の廉により入牢不座
安永8年2月9日松岡のふ一
(安永3)
6年目高利貸の廉により入牢不座
寛政7年9月21日関左門一
(安永4)
21年目(不明)不座
(不明)高柳仁一
(天明2)
(不明)(不明)(不明)寛政8年正月元日帰座?
※不座の記録なく、復帰の記録のみ
(不明)
※寛政8年正月元日
佐藤与一
(安永9)
(不明)
※16年目
(不明)
※参賀せず
不座寛政11年3月4日帰座
(不明)本庄政一
(寛政5)
(不明)(不明)(不明)文化9年5月15日帰座?
※不座の記録なく、復帰の記録のみ
(不明)須原龍田一
(文化8)
(不明)(不明)今日の検校仰せ付け文政6年帰席
(不明)山脇時尾一
(文政9)
(不明)(不明)不座天保3年2月4日帰座
天保11年正月22日磯村伊達一
(天保5)
7年目(不明)不座嘉永7年5月23日帰官
(不座から15年目)
弘化4年6月5日寺澤長信一
(弘化3)
2年目(不明)今日の検校に降格弘化4年6月5日、今日の検校
嘉永3年6月3日金山松美一
(文政10)
24年目(不明)欠官不座追放
慶応2年11月4日浅野順関一
(安政5)
9年目(不明)欠官不座


《2012年9月》
《2018年9月》修正

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