当道の階級と昇進例


 当道には初心から検校に至るまでに数多くの刻目があったが、その階梯をどのように昇進していったか、個々の例を見る。

当道の階級と昇進例(1)
4官16階通称73刻花一座頭会沢検校
初心(無官)(0)(不明)(不明)
打掛 1半内掛 ↓ ↓
2丸内掛 ↓ ↓
3過銭内掛 ↓ ↓
座頭一度衆分 4才敷衆分元禄13年(1700)
 11月朔日
 ↓
5(萩の)上衆引同17年(1704)
 正月朔日
 ↓
6中老引享保2年(1717)
 正月朔日
元禄15年(1702)
(22歳)
7同11年(1726)
 3月19日
 ↓
二度 8上衆引同18年(1733)
 9月22日
 ↓
9中老引 ↓
10 ↓
三度11上衆引 ↓
12中老引 ↓
13 ↓
四度在名
 または
四度
14上衆引正徳6年(1716)
(36歳)
15送り物引 ↓
16大座引 ↓
17中老引 ↓
18 ↓
勾当一度過銭勾当19過銭之任じ ↓
20上衆引 ↓
21 ↓
二度送物勾当22百引享保5年(1720)
(40歳)
23上衆引 ↓
24 ↓
三度掛司25三老引 ↓
26五老引 ↓
27十老引 ↓
28上衆引 ↓
29 ↓
四度立寄30五十引 ↓
31上衆引 ↓
32 ↓
五度召物33三老引 ↓
34五老引 ↓
35十老引 ↓
36上衆引 ↓
37中老引 ↓
38 ↓
六度初の大座39三老引 ↓
40五老引 ↓
41十老引 ↓
42上衆引 ↓
43中老引 ↓
44 ↓
七度後の大座45三老引 ↓
46五老引 ↓
47十老引 ↓
48上衆引 ↓
49中老引 ↓
50 ↓
八度権勾当51上衆引 ↓
52中老引 ↓
53 ↓
別当権別当検校54上衆引 ↓
55中老引 ↓
56 ↓
正別当57上衆引 ↓
58中老引 ↓
59 ↓
惣別当60惣別当任じ寛保3年(1743)
(63歳)
61上衆引 ↓
62中老引 ↓
63 ↓
検校検校64検校任じ ↓
65上衆引 ↓
66中老引 ↓
67宝暦5年(1755)
(75歳)
寛保元年(1741)歿明和元年(1764)歿
(84歳)

 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社(1974),p.180〜181 及び 同書p.182〜183 より作成


『上衆成立』による検校の昇進の状況

 奥村家所蔵文書『上衆成立』に記載された検校の昇進のようすをまとめた。 ここに例示したのは、岸崎検校城菊、松原検校民一(『上衆成立』では長福一)、横山検校美寿の一、上村検校染の一、東條(のち、高村)検校正専一の5名である。

 岸崎城菊は坊主(師匠)に総検校・岸並城民を、その師匠に平曲波多野流の正統な伝承者・岸部城郡を持つ。 松原民一の坊主は松浦経端一という。この系統からは、松浦検校久保一、菊岡検校楚明一、光崎検校浪の一ら、著名な箏曲家を多数輩出している。 いずれも京都を中心に活動した、いわば名門中の名門である。

 いっぽう、横山美寿の一の坊主は瀧宮敏行一という人であるが、その師匠は吉浦勾当といって、検校ではなかった。上村染の一の坊主も勾当であった。 また、横山の生国は安芸、上村は備前で、ともに地方の出身である。

 いずれも文化年間の後半に座入りした4人であるが、岸崎、松原が座入り後数年にして検校に到達した時点で、横山、上村はわずかに1刻の昇進を果たしたのみ。 検校の序列は昇進の順によって決まるので、座入りから48年目にして検校の地位をつかんだ上村の座順は、超スピード出世の東條正専一よりも下位ということになる。

 エリート検校と地方のたたき上げ検校とでは、昇進の状況に大差があることがわかる。

当道の階級と昇進例(2)
4官16階通称73刻岸崎検校松原検校横山検校上村検校東條検校
 (最速!)
初心(無官)(0)(不明)(不明)(不明)(不明)(不明)
打掛 1半内掛 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
2丸内掛 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
3過銭内掛 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
座頭一度衆分 4才敷衆分文化9年(1812)
 4月17日
 ↓文化7年(1810)
 正月元日
文化15年(1818)
 7月25日
 ↓
5(萩の)上衆引 ↓ ↓文政5年(1822)
 4月朔日
文政3年(1820)
 正月元日
 ↓
6中老引 ↓文化13年(1816)
 正月元日
天保2年(1831)
 正月元日
天保4年(1833)
 正月元日
 ↓
7 ↓ ↓天保9年(1838)
 4月26日
 ↓ ↓
二度 8上衆引 ↓ ↓天保14年(1843)
 9月10日
 ↓ ↓
9中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
10 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
三度11上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
12中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
13 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
四度在名
 または
四度
14上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓慶応3年(1865)
 正月元日
15送り物引 ↓ ↓天保15年(1844)
 9月13日
 ↓ ↓
16大座引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
17中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
18 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
勾当一度過銭勾当19過銭之任じ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
20上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
21 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
二度送物勾当22百引文化12年(1815)
 3月朔日
 ↓ ↓弘化4年(1847)
 6月16日
慶応3年(1865)
 2月15日
23上衆引 ↓文政4年(1821)
 8月7日
 ↓嘉永4年(1851)
 12月29日
 ↓
24 ↓ ↓嘉永2年(1849)
 10月5日
嘉永6年(1853)
 4月29日
 ↓
三度掛司25三老引 ↓ ↓嘉永3年(1850)
 9月18日
安政4年(1857)
 12月晦日
 ↓
26五老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
27十老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
28上衆引 ↓ ↓ ↓文久元年(1861)
 12月晦日
 ↓
29 ↓ ↓ ↓慶応元年(1865)
 10月8日
 ↓
四度立寄30五十引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
31上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
32 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
五度召物33三老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
34五老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
35十老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
36上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
37中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
38 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
六度初の大座39三老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
40五老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
41十老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
42上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
43中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
44 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
七度後の大座45三老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
46五老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
47十老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
48上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
49中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
50 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
八度権勾当51上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
52中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
53 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
別当権別当検校54上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
55中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
56 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
正別当57上衆引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
58中老引 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
59 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
惣別当60惣別当任じ文政4年(1821)
 5月27日
文政6年(1823)
 正月元日
安政4年(1857)
 5月8日
慶応3年(1865)
 8月6日
慶応3年(1865)
 4月6日
61上衆引 ↓ ↓
62中老引 ↓ ↓
63 ↓ ↓
検校検校64検校任じ ↓ ↓
65上衆引 ↓ ↓
66中老引 ↓ ↓
67同年(1821)
 6月5日
天保6年(1835)
 2月13日
弘化3年(1846) 十老
嘉永4年(1851) 三老
嘉永7年(1854) 二老
嘉永6年(1853) 十老
安政4年(1857) 三老
万延元年(1860) 総検校
安政3年(1856)
 二老にて常不参
文久2年(1862) 隠居

 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,p.180〜181
 『上衆成立』 ―― 渥美かをる・前田美稲子・生方貴重(編著);『奥村家蔵 当道座・平家琵琶資料』.大学堂書店(1984).p160〜208
 より作成


 当道の構成員全体を、昇進の実態に従って分類すると、およそ以下の4パターンに大別することができるだろう。 表中に記した ○ △ × の記号は、

  ○ 到達した階級
  △ 場合により到達した階級
  × 到達しなかった階級

を表す。

当道の階級と昇進のパターン
4官16階通称73刻
初心(無官)(0) ○ ○ ○ ○
打掛 1半内掛 ○ ○ ○ △
2丸内掛 ○ ○ ○ △
3過銭内掛 ○ ○ ○ △
座頭一度 〜 三度衆分 4才敷衆分 ○ ○ ○ ×
5(萩の)上衆引 ○ ○ × ×
  〜 途中略 ○ △ × ×
13三度の晴 ○ △ × ×
座頭 〜 検校四度 〜 検校在名
 または
四度

 〜 検校
14四度の上衆引 ○ × × ×
  〜 以後略 △ × × ×

ランク昇進の概要人数の推定比率
 A四度以上の階級に到達した者上位の数%程度
 B座入り後、1刻から数刻の昇進を果たした者20〜30%程度?
 あるいは
10〜20%程度?
 C座入り後、才敷衆分にとどまって昇進しなかった者20〜30%程度?
 あるいは
10〜20%程度?
 D打掛・初心の階級にとどまり、座入りを果たさなかった者40〜60%程度?
 あるいは
60〜80%程度?

 上の例に登場する検校は、すべてAランクである。超エリートの岸崎や松原はもちろん、長い年月をかけて検校に昇進した横山や上村、そして先の時代の会沢検校も、 当道の構成員の全体からすれば、ごく一握りのトップクラスの者である。

 花一座頭はBランク。会沢検校との比較では1刻ずつゆっくりと昇進し、最終的に「二度の上衆引」にしか到達できなかったように見えるが、 「二度の座頭」は、当道の構成員の人数からいえば真ん中よりもずっと上に位置する。 おそらく地域の座頭集団の中ではリーダー的な存在だっただろう。

 花一座頭のようなリーダー格の下に、少なからぬ数のCランクの座頭たちがいる。座入りは果たしたものの、その後は昇進することなく終わった者たちである。 現存する『座頭入門日記』に記載された座頭492人の最終官位の内訳をみると、このランクの者が274人と過半を占めている*1

  *1 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,p410.

 さらにその下に、Dランクに該当する多数の打掛・初心がいる。座入り前の地位であるから、座頭とすら称されない者たちである。この数はまったく不明。 以下のような断片的な数字*2から大胆な推定を試みるほかはない。

  寛保2年(1742) 越後高田城下 …… 検校1、衆分14、打掛4、初心16
  天保年間(1830〜44)  江戸 …… 検校68、勾当68、四度・衆分170、打掛350余(初心の人数の記載なし)
  享保5年(1720) 羽州酒田 …… 座頭14、打掛44、初心59

  *2 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,p187.

 打掛と初心の占める割合は、高田では57%、酒田では88%にも上る。江戸では初心の数字がないが、打掛から検校までの総人数の半分以上を打掛が占めている。 これらの者は、あくまでも調査の時点で打掛や初心だったということであって、後に衆分に昇進した者も少なからずいたであろうから、必ずしも一生かかって到達した最高位ということではない。 しかし、打掛・初心の者には、若年の死亡者や早期の当道離脱者も含まれていると考えられ、 長年にわたって打掛・初心の地位にとどまっている者が多かったというよりも、むしろ「入れ替わり」が激しかった状況が想像される。 そう考えると、打掛以下の者の人数は、少なく見積もっても衆分以上の者とほぼ同数、もしかしたらその数倍にも達していたかもしれない。


《2012年5月》

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