松崎 白圭 (1682〜1753)の随筆。
座頭に一夜の宿を提供した正直な足軽の美談である。
紀伊の国の足軽に、田舎に住まる許に、出世のため、京上りする座頭来たりて、日の暮れかかり、宿かるべき所まで行きがたく候間、ひそかに宿かし給はれと、わりなく頼みけるほどに、一夜留めてけり。 明けて後 暇乞ひして、立ち出でし跡にて、あるじの妻、座頭の寝たりし跡に行きて見れば、こがねを二三百ばかり袋に入れて指し置きけり。 其の儘 夫に見せ、是を落としたらんは、出世の望み絶たん計りに失ひぬらんに、少も早く返しあたへられよかしと云ひければ、夫も聞くもあへず、足をせいにして走り行きしが、 二三里も過ぎて、谷川のさかしき辺に、法師の観念してをるありければ、さてとぞ思ひ、声をばかりに呼びかけて、漸に往きつき、御坊は何とて左様の体にやと問ひければ、 官金を路次にて落とし、此の上は生涯の栄絶ちぬれば、ながらへてもかひなく存じ、身をなげんと存じより、念誦いたし候なりといひけるに、 さればこそ、かくあらんとおもひしなり、御立ちありし跡にて、妻の見付け出し候まま、少しもはやく届け申したく、息を限りに走り附きたりとて、取り出しあたへければ、 兎角の答へも得せず、涙にむせび、存も寄らず、御なさけ生々世々えこそ忘れ申すまじと、礼拝して往きわかれける。 終に音信もなかりける。数年の後、紀州の役人、高野に使して巡見しけるに、長六七尺石碑に、彼の足軽の名を彫り付けて、彼の座頭 勾当検校になりて、其の足軽の祈祷の為に建たるよしを書きたり。 不思議の事に思ひて、国に帰り、人にかたりしが、いつとなく上へも聞こへて、彼の者を呼び出し尋ねられしに、しかのよしを申しければ、至つて正直なるものなりとて、士に取立られしとぞ。 ―― 『窓の須佐美』三 (表記を一部改めた) |
それに対して、旅の座頭が殺害されて路銀を奪われる惨事も起こっている。近世中期以降は京都職屋敷への官金の上納にも為替が活用されるようになるが、かつての「座頭の京上り」は大金を携えた旅行で危険を伴うものであった。
是月(5月)伊勢国 国府と平野村の間にて、参宮の瞽者四人を殺し路銀を奪ひさりし賊あり、この事 惣検校嘆き訴により償金三十枚をもてその賊を捜索せしめらるる旨 その地に高札を立らる。
―― 『台徳院実紀』元和4年(1618)5月
* 伊勢国 国府・平野村 = いずれも、鈴鹿郡の村。現在の鈴鹿市。 * 惣検校 = 当時は伊豆円一。 |
《2018年11月》