※ このページには音声読み上げのできない特殊な漢字が含まれています。
宝暦7年(1757)4月28日生まれ。
源照派。坊主・寺家村脇一。寛政9年(1797)権成。文化14年(1817)2月、68代江戸惣録。同年4月10日、惣録在任中に歿。法名・覚凉院殿一誉饗和斗養居士。
墓所・浄土宗源照寺(東京都葛飾区高砂7-13)。
江戸。箏曲。山田流創始者。長谷富検校、山田松黒に師事。河東節などの江戸浄瑠璃を摂取して箏の歌曲を創始。 『小督の曲』、『長恨歌の曲』、『葵上』、『熊野』(以上、山田流奥許の四つ物)。箏組歌『初音の曲』。楽書『山田の穂並』、『吾嬬箏譜』を出版。楽器、爪も改良。
山田斗養一 山田斗養一は幽樵と号す。本姓は三田氏。父を了任と曰ふ。母は山田氏。斗養一幼にして盲となる。 性音律を嗜み、長じて箏を諸家に学ぶ。のち山田松黒を師とし、その姓の母の氏と合ふを以て、遂に山田氏を冒し、累遷して検校となる。 初め斗養一の箏を山田氏に学ぶや、特に出藍の誉あり。後別に機軸を出し、新曲数百を製す。其の声醞藉凄婉、聞くもの之に感動せざるはなし。 既にして上は公侯より下は庶人に至るまで、箏を学ぶもの争ひて其の門に踵り、貴顕豪富の酒筵を設くる毎に必ず聘して其の業を奏せしむ。 新声坊巷に流伝し、妓女娼婦も皆其の製する所を歌ふ。是に於てか盲師の旧曲を伝ふるもの能を忌み名を嫉み、謗議囂々として之を擯斥せんと欲す。 然れども其の曲大いに行はれ、其の名も益々顕れ、門徒日に進んで数千人に及ぶ。 斗養一人となり聡慧温柔にして胸襟豁達、物と忤(さから)ふなし。又至性あり。年五十を過ぎて父猶存す。斗養一之に事(つか)へて奉養衰へず。起居飲食皆其の意に適ふ。 文化十四年四月十日年六十一にして歿す。江都浅草山谷源照寺に葬る。高足数人皆其の曲を伝ふ。世に之を称して山田流と曰ふ。 太田錦城は一代の碩儒なり。嘗て斗養一と居を鄰して相好し。斗養一の没するや、其の墓誌を撰し、嗚呼世人目明カニシテ心盲。師ヤ師ヤ。目盲ニシテ心明カの語あり。 ―― 『本朝盲人伝』,p.101 |
〔山田検校斗養一〕 1757(宝暦7)年,上方に生まれ幼いころ失明した.
京都で地唄や箏曲を学び,のちに新天地を開拓するため江戸に移り,山田松黒斎の助力を得て,地唄箏曲の教授をしながら作曲に励んだ.
京都の地唄箏曲と,江戸三味線(歌舞伎音楽)との調和による新しい表現法を案出し,箏曲山田流を創始した.
1817(文化14)年,江戸で永眠した.享年61. 江の島:歌詞は河東節の竹婦人の江の島からとり,21歳の時の作といわれる.節付けが美しいのと,あまりむずかしくないので山田流ではよく演奏している. ―― 『世界盲人百科事典』,p.110 |
〔山田検校斗養一〕(1756/宝暦6~1817/文化14).本姓三田氏.生田流の山田松黒を師として琴を学んだ.文化年間,山田流を開き盛名をきわめた. 斗養一は作歌をよくし,ある邸へ出げいこにいったときに,鉢植えの梅が琴の上に散りかかったので,そこの主君からの所望により次の即詠を成した. 「たをやめの左の手のあやに香もひいて琴柱に梅の散りかかるなり」斗養一の才気がうかがわれる. ―― 『世界盲人百科事典』,p.100 |
山田斗養一 外部リンク